SSブログ

『ソ連獄窓十一年』7 [本の紹介・批評]

▼1953年3月初め、スターリンが死んだ。続いて内務大臣ベリヤが、政府転覆を企てたという容疑で逮捕され、処刑された。スターリンの死より少し前から、外国人の囚人に対する取り扱いは少しずつ寛大になっているように感じられ、支給される食糧にも改善が見られた。7月半ばになり、前野は初めて家族からの手紙を受け取った。
 前年の9月に家族へハガキを書いて、返事がいつ来るか、クリスマス頃になるか、あるいは正月になるかと、首を長くして待っていたが、ついに返事は来なかった。2月になっても来ない。妻子の運命について、不吉なことがあとからあとから頭をよぎった。
 すると監獄当局に呼び出され、モスクワから次のような注意が届いたので、伝達すると言って、監獄副長の少佐が紙片を読み上げた。文字は必ず楷書ではっきり書くこと、文章はできるだけやさしく簡単に書くこと、食品の名前はなるべく書かぬこと―――。
 ソ連に良い日本語通訳が少ないことを身にしみて分かっていながら、自分はなんと馬鹿なことをしたのだろう、と前野は悔やんだ。文字は楷書で、文章はできるだけやさしく書いたつもりだった。しかしあれも書きたい、これも書きたいと、虫眼鏡が必要なほど小さな字でいっぱいに書き込み、日本のなつかしい食べ物を思い出して、それを送ってほしいと書きいれたから、検閲する通訳陣はたちまち音を上げてボツにしたのだ。こうして連続5回、前野の手紙は握りつぶされていたのだった。
 注意を受けて、前野は全文20字の電報のようなハガキを書いた。その返事が届いたのである。家族は皆元気で、東京に残していた長男は東大の助手として働いていること、満洲で別れたとき三歳と二歳だった娘は小学校4年生と3年生になり、生まれていなかった男の子も1年生になったこと、妻は女学校の英語教師として働いていること、などが書かれていた。
 中風で半身不随になり、監獄の病院のベッドに横になっていた前野は、寝たままハガキを高く差し上げ、思わず「万歳!」と叫び、「ざまあみろ!スターリン!」と大声をあげた。
 《ついに私は勝ったのだ!この瞬間、心からそう思った。》

▼この年の12月、日本人戦犯千二百数十人がナホトカから日本へ送還されたという記事が新聞「プラウダ」に載ったのを、前野は目にした。
 翌年(1954年)の9月、前野は6年間過ごしたウラジミール監獄を出され、シベリア鉄道で1か月近くかけて東部へ送られ、ハバロフスクの戦犯収容所(ラーゲル)に入れられた。このラーゲルは、東西約百メートル、南北約二百メートルの広さを持ち、有刺鉄線を上に張り巡らした高さ4メートルの外壁で囲まれ、外壁の四隅には望楼があり、小銃を持つ番兵が絶えず見張っていた。レンガ造りのバラックと呼ばれる建物が4棟あり、ここに囚人が居住し、他に衛兵所、食堂、浴場、病院、洗濯場、便所、野外劇場、麻袋修理工場などが、独立した棟としてあった。
 新入所者がラーゲルに着くと、まず医者が診断し、「重労働に適する者」、「軽労働に適する者」、「病弱者であるが軽労働は差し支えない者」、「あらゆる労働を免除すべき病弱者」、「即時入院が必要な病人」に分類した。前野は「あらゆる労働を免除すべき病弱者」に入れられた。
 ラーゲルは囚人に強制労働を課し、収益をあげる経営体だった。ラーゲルの建設費も維持費、つまり囚人たちの生活費や職員の俸給も、囚人たちの稼ぎによって賄われる仕組みだったと、前野は書く。囚人たちは朝6時の鐘で起床し、7時半にはトラックに詰め込まれて建設作業の現場へ送られ、近場なら5列縦隊を組まされて徒歩で作業現場へ連れて行かれた。道路をつくり、工場やアパートを建設することが主な仕事だった。
 この構外作業がラーゲルの最大の収入源だった。仕事を発注した事業体からラーゲルに、その労働の量と仕事の成績に応じて金が支払われ、ラーゲルはそこから経費を差し引いた残りを収益とした。ハバロフスク市内最大の広場や大道路の建設、市内の病院、学校などの新しい建築は、すべてこうして造られたものだと前野は聞かされた。
 構内の軽作業としては、食堂やバラックの清掃、構内清掃、便所掃除、洗濯作業、風呂場勤務などがあった。

▼このラーゲルには、監獄とは比較にならぬ広範な自由があった。収容者は、外部との接触は厳しく制限されているものの、構内ではいつどこへでも自由に出かけられ、誰といつ会い、何を話そうと自由だった。また花壇があり、収容者は花を愛でることができ、青葉の下で清浄な空気を満足するまで吸うことができることも、前野には大きな喜びだった。
 収容者は約1千名だったが、その八割は日本人であり、日本語を喋れることも嬉しかった。収容者たちは週1回の映画の上映を楽しみにするほか、演劇、演芸、音楽会などの催しものを盛んに行っていた。『収容所から来た遺書』(辺見じゅん著)で知られることになった、山本幡男(はたお)が中心の俳句の集まり「アムール句会」も、収容者の文化活動の一つだった。野球や相撲も盛んで、手製のグラブやボール、バットもなかなか立派なものだった。
 しかしラーゲルには監獄と同様、「スパイ」の問題はあった。またシベリア・デモクラ運動と呼ばれ、ソ連を正義とする立場に立って収容者を告発、密告する運動が、一部で行われていた。「反動は日本に帰すな」、「反動は白樺の肥料にせよ」のスローガンが掲げられ、前野の知り合いも幾人か、「つるし上げ」の犠牲となった。

▼1955年の夏、日本の代議士十数名がソ連政府の招待でモスクワを訪れたことが、新聞に載った。議員団はフルシチョフ、ブルガーニンと日ソ国交回復や抑留者送還問題を話し合い、両者の話し合いの内容が詳細に公表されていた。ロシア語を読める者は貪るようにそれを読み、ただちに日本語に訳されて食堂の壁に貼り出された。
 そうこうしているうちにラーゲリに砂や小砂利が幾台ものトラックで運び込まれ、広場や道路に撒かれ、全バラックの清掃が抑留者に命じられた。汚く曇っていた窓ガラスはピカピカに磨き上げられ、ロシア人の看護婦長は装飾用のカーテンを徹夜で縫っていた。抑留者たちは、これはよほど偉い人が来るに違いないと直感した。
 ある日リーダー格の男がバラックの大部屋で、皆さんと協議したい、と声を張り上げた。
 「諸般の状況を総合して判断すると、明日、日本の訪ソ議員団がわれわれのラーゲルを訪問するのは間違いない。しかしラーゲル当局はこれを否定し、われわれに明日作業に出るよう要求している。当局が議員団と抑留者を接触させまいと企んでいることは明白で、彼らは議員団がわれわれから抑留生活の真相を聞くことを恐れているのだ。そこで明日とるべき行動を決めておきたい。代表者を決めて議員団と会うようにすべきなのか、それとも全員が作業を拒否して議員団を歓迎するべきなのか。もし全員が作業を拒否したら、当局の厳しい処罰を覚悟しなければならないが、どうか?」。
 全員で作業を拒否することが、瞬時に満場一致で決定された。集会はさらに収容者を代表して議員団に挨拶や質問をする代表を選び、作業隊の幹部が他のバラックと協議するために出ていった。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。