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日本の1970~90年代とサブカルチャー [思うこと]

▼映画や流行歌には、その時代の人びとの希望やあこがれが反映されている。映画や流行歌を追いかけていけば、時代の欲望の形がどのようなもので、社会の雰囲気や気分がどのようであったかを、見ることができる―――。
 NHK制作の番組「サブカルチャーの時代」は、そのような時代とサブカルチャーの関係に眼を付け、時代を読み解こうとした意欲的な企画である。筆者はこの番組のことをつい最近になって知り、再放送された一部を観ただけなのだが、そのうちアメリカ社会の1990年代~2010年代の30年間の部分を取り上げ、このブログで紹介した。(「サブカルチャーの時代」3/10~3/24)。
 そのときこの番組について、ブログの記事には書かなかったが、疑問を感じる点がないわけではなかった。番組を制作した担当ディレクターが、アメリカ社会の空気を直接どれぐらい知っているのか、という点である。もし担当ディレクターが、アメリカ社会の雰囲気や気分の変化を直接知らないのなら、映画と社会変化を結び付ける分析や批評を、その社会に生きるアメリカの映画批評家や歴史家や哲学者に頼らざるを得ない。それでは日本放送協会が「サブカルチャーの時代・アメリカ篇」をつくる意義が、半減するように思われたのだ。
 やはり自分の生きた時代の空気を、自分の体験した流行歌や映画で語ってもらいたい。それによって自分の生きた時代の意味やその変化を、自信を持って語れるのであり、「方法」の有効性を確認することもできるのだ。―――
 幸運なことに、ブログ連載中の3月に「日本篇」を観ることができた。(1960年代は見逃した。)筆者自身の体験した時代を、映画や流行歌やその他もろもろの「サブカルチャー」を手掛かりに、どのように読み解くことができるのか、日本の1970年代から90年代まで30年間を見てみたい。

▼日本は70年代に、本格的な「消費社会」に入ったと番組は語る。日本は米国に次いで世界第二の「経済大国」となり、大阪で開かれた万国博覧会には、国内外から6400万人の見物客が訪れた。多くの人が中流意識を持つようになり、「モーレツからビューティフルへ」、「集団より個の重視」が、時代の掛け声となった。銀座に歩行者天国が現われたのも、この70年だった。
 もちろん「政治の季節」だった60年代の残り火として、連合赤軍による「よど号」のハイジャック事件(70年3月)が起こり、秋には三島由紀夫の自衛隊への蹶起の呼びかけと割腹自殺の事件(70年11月)があった。72年春には追い詰められた連合赤軍が「あさま山荘」に立てこもる事件が起こるとともに、逃避行の中で仲間を「総括」する「リンチ殺人」が行われていたことが判明した。この「リンチ殺人」事件が、「政治の季節」に最期の引導を渡した。

 1970年3月に若い女性向けの雑誌「アンアン (an・an)」が創刊された。その半年後、国鉄の個人旅行客増加を狙ったキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」が始まった。「アンアン」とそのあとを追った「ノンノ (non-no)」は、若い女性ならではの視点からの旅情報を載せ、「日本発見」と「自分探し」が重なり、若い女性の旅行が一大ブームとなった。彼女たちは「アンノン族」と呼ばれた。
 1971年、NHKは全放送をカラーで行うことに踏み切り、TV全盛の時代となった。TBSの番組「8時だヨ!全員集合」は、73年4月に最高視聴率50.5%を記録した。煽りを食らったのは映画業界で、ピークの1958年には11億人を数えた観客動員数は六分の一に激減し、大映は倒産、日活は「ロマンポルノ」に活路を求めた。
 「ロマンポルノ」路線は世の批判を浴び、警察の手入れもあったが、興行的には成功だった。単に興行的に成功だったという以上に、若手の監督に映画を撮る機会を与え、彼らの才能を孵化させる役割を担ったのであり、藤田敏八、崔洋一、相米慎二、森田芳光などがそこから育っていった。

▼時代の気分はヒット曲に現れた、と番組は言い、吉田拓郎の「結婚しようよ」(1972年)、井上陽水の「傘がない」(1972年)、かぐや姫の「神田川」(1973年)を挙げる。時代のテーマは、社会への反攻からささやかな個人の幸せへと変わったと言い、「神田川」の四畳半ソングは、やがて荒井由美(ユーミン)の歌の世界に変わる。そして山口百恵やキャンディーズ、ピンクレディなどの歌が、70年代後半の子どもから大人まで夢中にさせた。
 おそらく70年代から80年代にかけてが、日本のポピュラーソングの全盛期であったのだろう。皆が口ずさみたくなるような良い歌がたくさん生まれ、人びとの関心を集めた。久米宏と黒柳徹子が進行役を務める「ザ・ベストテン」が、1978年にTBSで開始され、毎週のヒットチャートが注目を集め、歌謡界を盛り上げた。

 番組が採り上げた映画は、流行歌に比べてかなり地味に見える。
 最初に取り上げるのは、寺山修司の「書を捨てよ街へ出よう」(1971年)であるが、筆者はこれを見ていない。番組はこの映画について、虚と実の境界線を取り払う寺山流の手法を駆使し、「閉ざされた空間から抜け出せ」という若者に向けたアジテーションだったと言う。イタリアのサンレモ映画祭に出品され、日本の若者の鬱屈した心情を描いたものとして、高く評価された。
 そのほかに、深作欣二の「仁義なき闘い」のシリーズ(1973年~)、「日本沈没」(1973年 監督・森谷司郎)、「犬神家の一族」(1976年 監督・市川崑)、「太陽を盗んだ男」(1979年 監督・長谷川和彦)などを、番組は取り上げる。
 「日本沈没」は1973年に最も観客を集めた映画だが、小松左京の原作は、闘争の季節を終え、政治や社会に無関心になったかに見える70年代の日本人に、そのアイデンティティはどこにあるのかを問いかけたのだと、番組は語る。
 「太陽を盗んだ男」は、無気力に生きる高校の理科の教師が、プルトニウムを盗んで原爆をつくり、日本政府を脅迫する過程で生き甲斐をとり戻すというストーリーだという。「高度経済成長を経て豊かになったはずの日本人は、社会や生活の単位が集団から個へ移り変わる時代に、精神的支柱を見失いはじめていた」というのが、番組の解釈であった。

(つづく)

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