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米国社会の分裂3 [思うこと]

▼前回、トランプが2016年の大統領選に勝利した要因とともに、ヒラリー・クリントン(民主党)が敗北した原因について紹介した。富裕層の政党となり、労働者の思いに関心を持たなくなった民主党は、負けるべくして負けたのだというのが、白人労働者層と日常接している民主党の現場の活動家の感想であることも紹介した。民主党の活動家はその発言の中で、高学歴の民主党支持者が強い関心を懐く「アイデンティティ・ポリティクス」は、大事ではあるが政治のメインテーマではないと語っているのだが、この問題について少し筆者の考えを述べておきたい。

 筆者は1年前のこのブログに、「『リベラル』の危機と『リベラル』の生み出した危機」という記事を載せた。(2022/2/4~2/25)。その中でアーサー・シュレージンガーの『アメリカの分裂』(1992年 岩波書店)を取り上げ、八十年代以降急速に米国社会に広まった人種や民族を過度に重視する考え方について、彼が強い危機感を懐いていたことを述べた。
 ある人びとは、学校の歴史教育の目的は少数派民族の子供たちに自尊心を育てることにあると言い、学校のカリキュラムを変えるように要求した。教育内容のヨーロッパ中心主義が、非白人の子供たちに誇りを持てるような過去を提供しないから、彼らの学業成績は振るわないのだというのである。
 ある黒人のイデオローグやその考え方に共鳴する教育者たちは、「アフリカこそ文明の母である」と言い、「ピタゴラスとアリストテレスはその数学と哲学をエジプトの黒人学者から盗んだ」と主張した。しかしピタゴラスもアリストテレスも、エジプトを訪れたという証拠は何もないし、そもそも米国の黒人たちはその先祖をエジプトに持つのではなく、先祖の大多数は西アフリカの、ギニア海岸から来たのだ、とシュレージンガーは書く―――。
 日本人のわれわれにとってなんともバカバカしい主張だが、シュレージンガーが正面から批判の対象としなければならなかったところに、米国社会特有の事情を推測するべきなのだろう。
 大学における西洋中心主義的な教育が批判され、カリキュラムを多様な文化や民族に合わせたものに改編せよ、という要求も広がった。
 《……アーヴィング・ハウが、「聖書、ホーマー、プラトン、ソフォクレス、シェークスピアがわれわれの文化の中心的存在だ」と敢えて書いたとき、憤慨した一読者(その前年にアマスト・カレッジを卒業したという)は、「ハウのリストの中にコーランやギータや孔子や、その他わが民衆の中心的文化の産物が掲げられていないのは、どういうわけだ」と書いてきた。誰も、これらの作品の重要性や、それらが他の社会に及ぼした影響について疑うことはできない。しかしアメリカ社会に対しては、どうであろうか。すでに過去の人物であるヨーロッパの白人男性たちがわれわれの文化形成に大きな役割を果たしたということは、あいにくであったのかもしれない。しかし、それはありのままの事実なのだ。われわれは歴史を消し去ることはできないのである。/アメリカの学校教育でヨーロッパ中心の偏りが見られるのは、こうした月並みな歴史的事実が現存しているからであり、何らか卑劣な帝国主義的陰謀によるものではない。》(『アメリカの分裂』)

 人種・民族集団によるアイデンティティの主張は、女性や性的マイノリティなどの集団に広がり、集団ごとに自分たちに向けられた偏見や差別を非難し、権利を主張する運動となって、米国社会を席捲した。米国は、偏見や差別を含まない言葉や表現を用いるように(ポリティカル・コレクトネス=PC)、いっそう神経を使わなければならない社会となった。

▼アーサー・シュレージンガーの『アメリカの分裂』は、当時の、つまり90年代初めの「リベラル」層から好意的に迎えられた。
 シュレージンガーの主張は、多様な文化の存在を尊重しながらも、国民の統合を支えるものとして共有された文化があり、それは西洋の伝統文化だと考える立場である。「文化多元主義 cultural pluralism」と呼ばれるものだ。
 それに対してシュレージンガーが批判した主張は、西洋文化がアメリカの国民文化の中心になることを認めない。そのように想定することは、多様な文化を抑圧する西洋中心主義だと批判し、歴史をマイノリティの立場から見直すべきだと主張する。これは「多文化主義 multiculturalism」と呼ばれる。
 シュレージンガーは、さまざまな文化が栄える共通基盤としての「啓蒙」の価値を擁護し、それを破壊する多文化主義は反アメリカ的であると批判した。90年代初めの「リベラル」を代表する「ニューヨーク・タイムズ」や「ニューズウィーク」誌も、「多文化主義」の全体主義的、「思想警察」的傾向を批判した。
 だがその後、評価の軸は左に大きく動き、今では「リベラル」であるためには、「多文化主義」の立場に立つのが当然とされているようである。大学ではPCによる言論の規制が強まり、その規制からはずれれば、「差別主義者」、「白人至上主義者」と非難されるらしい。
 NHKの番組「サブカルチャーの時代」に登場する映画批評家や哲学者は、番組の中で次のような発言をしていた。
 「PCが最優先され、抑圧が強まり、誰もリスクを取らない」。「建て前を振り回すリベラル」。「若者の右傾化が言われるが、若者は本来反抗するものだ。2010年代にPCがルール化したから、人種差別的なことをしたり、オンラインで人をけなすことが、今どきの反逆の形となったのだ」。
 彼らは「リベラル」な立場の人間と考えられるが、「多文化主義」の現実のありようは、彼らの受け入れられない所まで行ってしまったように見える。

 トランプ大統領の最側近だったスティーブン・バノンは、トランプ政権を去る直前、インタビューで次のように語った。
 「民主党側がアイデンティティ・ポリティクスを論じ続けるほど、こちらの思うつぼだ。毎日、人種差別を言い続けてほしいものだ。左派が人種とアイデンティティに焦点を当てて、こちらが経済ナショナリズムを訴え続けていれば、民主党をつぶせる」。(『破綻するアメリカ』会田弘継 2017年)

▼筆者は「アイデンティティ・ポリティクス」の議論に不案内であり、またバカバカしいとしか思えないので、言及はこの辺で終了するが、しかしこれが「ポリティクス」と言いながら、およそ「政治」から遠い未熟な運動であることだけは一言しておきたい。
 「政治」とは一面、集団内部の支配・被支配に関わる現象であるから、「アイデンティティ・ポリティクス」の自己主張や要求も、その面では「政治」運動であるかもしれない。しかし同時に「政治」は、集団が外部世界と関わる中でいかにして一つにまとまり、集団の利益を守り、存続し発展するかを考える技でもある。「アイデンティティ・ポリティクス」は、この面では米国社会に分裂・分断の影響しかもたらしていない。
 米国社会で経済的な格差が拡大しているだけでなく、文化的・思想的な分断が進んでいる現状は、国力という面から見てマイナスであることは確かである。それは国際秩序の面で大きな危険をはらんでいるし、同盟を結んでいる日本の立場からも好ましいことではない。
 米国が統一感をとり戻し、国際社会で相応の影響力を維持することができるのか、それとも孤立主義に退行し、国際社会の混沌が深まるのか、世界は重大な岐路に立たされている。

(この稿おわり)

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