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『ソ連獄窓十一年』6 [本の紹介・批評]

▼前野茂は1945年の秋に満洲の通化で八路軍に逮捕され、ソ連軍に引き渡され、3年近く経ってようやく「判決」が出された。日本で判事の職にあった前野は、ソ連がどのような法律により自分を裁こうとしているのか、その論理はどの程度正当なものであるのかについて、強い関心を懐いていた。その結果は、予想をはるかに超えたデタラメなものであり、前野は驚愕と憤激の渦のなかで呆然となった。
 そもそもレホルトブスカヤ監獄の一室で言い渡された「判決」自体、その内容以前に形式としても、とても判決とは呼べるようなしろものではなかった。前野が下士官二人に両腕をとられ、デスクの前に立たされると、デスクの向こうの男は前野に名前と生年月日を確認したあと、引き出しから紙を取り出し、読み上げた。そして「わかったか」と、ロシア語で聞いた。「まるで分らない。通訳が必要だ」というと、「通訳の必要なし」と言い切り、両手の指で二十五という数字と格子の形をしてみせ、「わかったか」ともう一度聞いた。
 《……二十五年の禁固というおそろしい重刑に処するのに、公判も開かず、書面審理で片づけてしまうとは、なんという乱暴さ、なんという人権無視であろうか。恥ずかしくもなく、こんなことができるものだ。(中略)ことに通訳もつけないで、言葉のわからぬ外国人に対し、手真似で判決の宣告をするとは何ごとか。これが厳粛な刑事裁判の判決言い渡しと言えるだろうか。これでは第一、どういう機関によって裁判がなされたのか、軍法会議なのか、普通裁判所なのか、そしてまた、どういう事実が認定され、どんな法条が適用されたかも不明である。さらに、上訴が許されるのか許されないのか、許されるとして、どうしたらよいのか。いかに裁判が「政策遂行のための強硬手段」であるとはいえ、これではあまりに乱暴であり、無茶というものだ。……》
 デスクの向こうの男は前野に紙片を突き付け、署名するよう要求した。前野は、今ここで署名を拒んでもどうなるものでもないと、それ以上抵抗する気力も失せ、言われるままに署名をした。

▼前野茂が「判決」後に連れて行かれたのは、モスクワから鉄道で5~6時間の距離にあるウラジミール監獄だった。帝政時代から政治犯の収容所になっていた歴史の古い監獄である。
 入れられたのは、5~7人を収容する雑居房だった。起床時間や就寝時間、食事の時間が規則で決められ、便所と散歩に一日2回ずつ連れ出されるのはレホルトブスカヤ監獄と変わらなかった。また、食事の絶対量が少ないために飢えに苦しみ、寒さに震える生活も、変わりはなかった。
 しかし定められた行事以外に時間をどう使うかは、囚人の自由だった。黙って座っていようと寝台に横になって眠ろうと、読書をしようと書きものをしようと勝手だった。監獄の図書室には、文学書やマルクス・レーニン・スターリンの著書が揃い、新聞も読めた。囚人どうし喋ることも自由だったし、破れ物をつくろうために番兵に要求すれば、針と糸を手に入れることもできた。
 家族などから金の差し入れがあれば、10日に一度、必要な物品を買うこともできた。
 前野はロシア語の勉強をすることにした。同房の日本人にロシア語のできる男がいたので、まず初歩的な文法を彼から学び、その男が他所の房に移ったあとは、ロシア人やフィンランド人から教えを受けた。朝夕一枚ずつもらう便所紙に白紙の部分が多いときは大事に保管しておき、それに文字と意味を書きつけた。一カ月もするとロシア語の単語と意味を書き込んだ紙が十数枚になったので、黒パンを練って作った糊で張り合わせ、単語帳に仕上げた。
 しかしこの努力の結晶は、月に一回行われる「点検」で没収されてしまった。前野は必死になって抗議し、同房のロシア人も同情して前野に代わって弁明してくれたが、その単語帳の紙が便所用であるというだけの理由で、聞き入れられなかった。便所の紙は便所で使用するために支給しているのであり、これを監房に持ち帰り、他の用途に利用するのは違法であるというのである。
 しかし見つかれば没収されると分かっていても、当時の前野にとって単語帳は絶対必要なものであり、やめることはできなかった。幾度か没収が繰り替えされた後、金のあるロシア人に主食の黒パンを提供してノートを買ってもらうという方法を思いつき、ついに数冊のノートを手に入れた。これにアルファベット順に単語を書き入れ、手製の露和辞典ができあがった。
 前野は学習を始めて1年後に、曲がりなりにも新聞の国際欄の簡単な記事を、読むことができるようになった。しかし会話の方は、一向に進歩しなかった。

▼前野がウラジミール監獄で見知った囚人は、ロシア人やソ連邦内の諸民族だけでなく、日本人、中国人、朝鮮人、ドイツ人、トルコ人、ギリシャ人、フィンランド人、オーストリア人、ポーランド人、フランス人、アメリカ人等々、国際色豊かだった。前野は彼らの人柄や逮捕の原因、房の中での人間関係などいろいろ書き留めているが、それらはすべて割愛する。彼らが等しく待ち望んでいたのは、新たな戦争がアメリカとソ連の間に勃発することだった。米ソ間の戦争が勃発し、ソ連の政権がひとたまりもなく瓦解し、ソ連における全政治犯の囚人が解放されることを期待していた。
 もちろん戦争の途上、ウラジミール監獄の囚人たちがソ連の政権によって皆殺しにされる危険性は、多分にあった。解放の可能性は1%かもしれない。しかしそこには1%の可能性はある。このままではただ死を待つのみで、1%の可能性すらない。《溺れる者は藁をも掴むの諺がある。哀れな囚人たちはこうして万死に一生を求めて、米ソ戦争の勃発を一日千秋の思いで待ち望んだのであった。》
 1950年6月25日の新聞を手に取ったとき、囚人たちは「期待に胸躍らせて手を取り合い、躍り上がって快哉を叫んだ」。南北朝鮮軍の衝突が報じられていたからだった。囚人たちは非常な期待を持って事の成り行きを注視していたが、北朝鮮全土が国連軍によって占領されるという時期になっても、ソ連軍は動こうとしなかった。代わりに中国義勇軍が参戦し、北朝鮮の国連軍を押し戻したことが報じられ、囚人たちは驚いた。

 1952年9月、日本人囚人が集められ、監獄副長の少佐から、月1回家族に手紙を送ることが許可されることになった、と告げられた。ただし、こちらでの生活については一切書いてはならないと、少佐は付け加えた。
 ほんとうかな?また騙されるのではないか?という思いが、まず前野の頭に浮かんだ。まったく予期していなかったことで、夢でも見ているようで、容易に信じることができなかった。
 《ほんとうの歓びが湧きあがって来たのは、少佐の部屋を出て、階段を途中まで降りたころであった。私は(同房の)前田氏を顧みて笑いかけた。彼の顔も笑いに溶けきっていた。》

(つづく)

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