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「ソ連獄窓十一年」5 [本の紹介・批評]

▼レホルトブスカヤ監獄の独房では、居眠りすることも許されなかった。
 朝食の水っぽい黒パンを食べ、白湯を飲み干すと、途端にもう空腹を覚え、その瞬間から次の食事の来るのをひたすら待つことになる。次の食事までの時間をどう過ごすかは、大問題だった。
 読む本も話し相手もなく、紙もペンもない。大股に歩けば4歩で済む獄房内の散歩は、すぐに飽きるし何よりも腹が減る。ぼんやり寝台に腰かけていると、眠気が襲ってくるが、居眠りしているのを覗き穴から見つけると、番兵は鉄の扉を持っている大鍵で連打する。そのすさまじい大音響に、前野は幾度も飛び上がった。
 眠っている間だけが救いであり、楽しみであり、夜がひたすら待ち遠しかった。
 前野は、午前中は窮乏のどん底にいるであろう妻子が生きていく方策を考え、妻や子どもとの楽しい団欒を夢想することにした。そして午後は、新日本の再建の方策を考えることに没頭した。疲れてくると小机にタオルを広げ、大匙を筆代わりにして習字の稽古の真似をしたが、番兵はタオルや大匙を点検して、合点の行かぬ顔をしていた。

 モスクワに来るまでの取り調べは、北朝鮮や極東というソ連からいえば僻陬の地で行われたために、調査官や通訳の質が低く、こちらの主張が理解されないことが多かったのではないかと、前野は考えていた。ソ連の首都には学問教養のある調査官がそろっているだろうから、今度こそ満州国の司法制度について正しく理解してもらわなければならない。そう考えて前野は、呼び出しを今日か明日かと待っていた。しかし前野の期待は見事に裏切られ、なんの音さたもない単調な日々が過ぎていった。
 食糧不足や運動不足、それに精神的な重圧が重なって、前野の健康は急速に衰え、精神力も低下し、闘志の薄らいでいくのを自覚した。両脚の膝から下がむくみ、指で押すと深くへこんだ。毎日の散歩に出るのも苦痛になったが、散歩を休むことは認められず、途中で立ち止まったりしゃがみ込むことも許されない。監視の兵に脚のむくみを見せ、「ドクトル、ドクトル」と訴えたが、なんの効果もなかった。
 ある日ふと、自分の訴えたのが散歩へ誘導する兵で、任務が異なるため効果がなかったのかもしれないと思いつき、監房の看守兵にドクトルが必要だと訴えてみた。すると30分ほどして女医が現われ、聴診器を胸に当てて簡単に診察して帰っていった。あまりにも簡単な診察なので、これでは薬さえくれるかどうか怪しいものだと思っていると、その後の食事は量質ともにガラリと変わり、薬も処方され、前野は九死に一生を得る思いだった。

▼病人用の食事が支給されるようになったころ、やっと取り調べが始まった。
 昼食が配られる直前に呼び出され、尋問は夜7時ごろまで続けられた。独房に帰ると冷え切った昼食のスープと粥が待っていて、これを食べ終えるとすぐに夕食が配られる。そして夜9時になり、もうすぐ就寝だと思っていると、迎えの下士官が扉を開ける。夜呼び出されると、12時を過ぎなければ帰してもらえない。ろくな尋問のない場合でも同じであり、これは彼らが「夜勤特別手当」を稼ぐためにやっていることだと、前野は確信した。
 尋問の内容は、これまで行われたものの繰り返しに過ぎなかったが、違いはこれまでとは比較にならないほど強引に、彼らの思う方向にもっていこうとすることだった。満州国の性格やその司法制度について前野が説明すると、調査官の大尉は「ナンセンス!」と言って机をたたき、「そんなことを言うなら、今すぐに中国に引き渡してやる。中国に引き渡せば、あなたは長春の広場で首を斬られるだろう」と脅した。
 相手はこちらの主張を聞く気などまるでなく、自分の意にかなう供述を得るためには、中国に引き渡すとか懲罰室に入れるなどと脅迫することも厭わない。こうした人間にかかっては助かる道はないだろうと、半ば自暴自棄の気持になり、前野は言いたいだけのことを言うことにした。
 「それは結構だ。中国に対しては私も責任を感じている。しかし貴国に対しては、何ひとつ害悪行為をしていないし、またしようと思っても出来ない職についていた。それなのに貴国は私を捕らえて、犯罪人扱いする。それは他国への内政干渉ではないか。中国に渡したいのならそうしてくれ。しかし私は、現在の正当政権である蒋介石政府に引き渡されることを要求する。」
 すると大尉は、「モスクワにはたくさんの中国共産党員がいる。電話ひとつ掛ければ、すぐ彼らは駆けつけて、あなたはこの世から消されてしまうだろう」と言った。

 調査官と前野の対立のひとつは、「裁判の独立」の問題だった。前野が司法行政の目標として、そのためにどれほど努力したかを説明しても、調査官は理解しようとしなかった。
 前野は、それではソ連では裁判というものをどう考えているのかと、反問してみた。答える必要はないと拒否されるかと思ったら、大尉は冷笑を浮かべながら、「裁判とは国策遂行のための強硬手段である」と言い切った。いみじくも、よくぞ言ってくれた、と前野は思った。《この短い言葉の中に、この国の性格、この国における裁判の本質が、遺憾なく表現されているではないか。プロレタリア独裁・共産党専制の国における裁判は、まさにそういうものに違いない。そうだということは、この国には人権保障は存在しないということを意味することになる。》
 こうした観念で育てられ、凝り固まった頭には、「裁判の独立」などまったくばかばかしい話に違いない、と前野は納得した。

▼前野の健康はなかなか回復しなかった。毎晩のように呼び出されるので、就寝の合図があっても安心して毛布の中に入ることができない。調査官さえ、どこが悪いのか、と心配するほどの衰弱ぶりだった。あとから考えても、この時期に死ななかったのが不思議だと前野は思い、ソ連のやり方への強烈な敵愾心だけが自分を支えていたのだろうと思った。
 1948年の年が明け、数日たったころ、前野は監房を移動させられた。新しい監房は独房ではなく、入っていくと二人の男がおり、一人は近衛、もう一人は中村と名のった。近衛は元首相近衛文麿の子息・文隆で、中村は新京日本領事館の副領事だった。それまでの独房生活が苦しかっただけに、それから三人で過ごした6ヶ月の生活は、長いソ連抑留生活の中で最も楽しいものだったと、前野は想い起す。
 近衛文隆は召集されてから関東軍に配属され、終戦当時は満洲東部国境駐屯野戦砲兵隊の中隊長だった。あけっぴろげで物事にこだわらず、包容力があり、話し上手・聞き上手だった。プリンストン大学に留学し、父文麿総理の秘書官を務め、父の代理として中国各地の軍を慰問して回った経験があるだけに、話題は豊富で、貴族階級の特異な生活習慣や父文麿総理の性格など、話はいくら聞いても聞き飽きなかった。
 彼はその身分が判明するとすぐにモスクワに送られ、近衛家と天皇家の関係を詳細に調べられたり、関東軍の対ソ作戦計画を全面的に知っているという前提で細菌戦の準備について執拗に尋問されたりした。さらには「ソ連のために働く」ことを慫慂され、拒絶すると煙草の支給を止められたり、食事を減らされたり独房に入れられたりしたという。
 それでも若いだけに将来に対する見方は一番楽天的で、「あなたをすぐに日本に帰すわけにはいかない。もう少し監獄にいてもらう」と検察官に言われた「もう少し」を、長くて半年あるいは1年であり、それ以上のはずはないと考えていた。前野は、そんな生易しいものではないと思ったが、悲観論を述べるのも憚られ、黙っていた。

 1948年の6月初旬、前野は監獄の二階の一室に呼び出され、禁固25年を言い渡された。

(つづく)

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