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『ソ連獄窓十一年』8 [本の紹介・批評]

▼翌日の早朝、作業隊の代表は、日本の議員団を抑留者全員で迎えたいから作業は休みたいと、ラーゲル当局に申し入れた。ラーゲル当局はこれを拒否し、日本議員団の来所は絶対にない、と断言した。そして朝食が終わり作業の時間が来ると、いつもどおり合図の鐘を鳴らした。しかしいつもの場所に集まる抑留者は、一人もいなかった。
 あわてた当局は作業隊幹部を招集し、その不法をなじった。作業隊幹部たちは、あらためて日本議員団との会見を要求し、議員団来訪の事実を隠し会見を妨害しようとするソ連側を、強く非難した。全員処罰の脅しが効果がないことを知り、議員団来所の事実を隠しておけないことを悟った当局は、「日本議員団が来所することは聞いており、歓迎準備を命じられていることは事実だが、まだ来所の日時について通知を受けていない。来所の日時が決まったら、必ず全員で会見できるようにするから、今日は作業に出てくれ」と言った。
 「われわれはこの十年間、あなたがたに騙され続けてきた。見え透いたゴマカシを信じるわけにはいかない。」
 「それでは議員団が来所しなかったら、君たちはどうするつもりだ?」
 「今日来なければ明日、明日来なければ明後日、われわれは会えるまで作業を拒否するだけだ。」
 ソ連側はついに作業隊の要求を呑み、作業の休みを宣言した。作業隊幹部はさらに議員団との会見の進め方についても、抑留者側の計画を容認させた。

 抑留者たちは10時半に野外劇場に集合した。11時を回ったころ、日本の議員団が到着した。立派な服装をし、栄養もたっぷり行きわたっているように見える彼らを見て、《何とも言えないうれしさと誇りが胸にこみ上げてきた。この感じは私だけでなく皆に共通するものであっただろう。抑留者の間からは一斉に割れるような歓迎の拍手が湧き起こった。》
 まず抑留者代表が来訪に対する歓迎と感謝の辞を述べ、抑留者の現況について概括的な報告を行った。次いで議員団長の挨拶と議員たちの自己紹介ののち、抑留者代表の求めに応じて、日ソ交渉の経緯と日本の政治的・経済的状況について、説明報告がなされた。現在、日ソ間で平和条約締結を目指して交渉が行われており、南千島の帰属問題で交渉が難航していること、また日本は終戦直後の混乱から立ち直り、産業は発展し、国民の生活水準は飛躍的に向上したことなどが報告された。
 《それは何よりも嬉しくありがたいことであった。抑留者の中には感激に堪えず、声を放って泣く者あり、ほとんどすべての者が涙で顔を濡らしていた。報告者の声は時として鳴りやまぬ拍手と歓声で中断された。》
 その後、ラーゲル内の視察と患者の慰問を終え、議員団は割れるような拍手と歓呼に送られて帰っていった。

▼日ソ間の国交回復の協議が開始され、抑留者たちは帰国の日も近いと期待していたが、交渉はなかなか進まないようだった。
 ソ連に抑留されていたオーストリア人が帰還し、ドイツ人もアデナウアーとフルシチョフの間に戦争終結宣言がなされたあと、帰還を果たしたことが新聞を通じて知られると、抑留日本人の間に割り切れない気分が漂った。同じラーゲル内の韓国人や中国人も送還され、あとに日本人だけが残ることになると、言いようのない憤懣と焦燥感が抑留者の間に充満した。抑留者たちは早期の解放を求めて、1956年の年明け早々ストライキに入り、作業に出ることを拒否した。
 このストライキは3月半ばに潰されたが、その後抑留者の待遇はあらゆる面で飛躍的に改善された。また作業隊員の大部分は、その労働から実質的に解放された。

 7月下旬、ラーゲル内で前野を含め約十名の「裁判」が行われた。前野に下されたのは、「病状にかんがみて釈放する」という「判決」だったが、彼は感激することもなくこれを受け止めた。それは幸福があまりに大きく、感情がついていけなかったのかもしれないし、そうした判決が出ることは当然だという信念があったためかもしれないと、彼は振り返る。
 8月半ば、前野は他の帰還者百六十名と一緒に鉄道でナホトカに送られ、帰還船・興安丸に乗り、ついに帰国を果たした。1945年に満洲国・通化で八路軍に逮捕され、ソ連軍に引き渡されてから11年が経っていた。

▼長々と『ソ連獄窓十一年』の叙述を紹介してきた。と言っても、文庫本千二百ページのうちのごく一部に過ぎないが、前野茂の体験の骨格が明瞭になるように努めながら、筆者の関心を引いた部分を中心に紹介してみた。
 筆者は『ソ連獄窓十一年』を、興味深く読んだ。ソ連軍に捕らわれた男の75年前の特殊な体験をつづった本としてではなく、無意識のうちに、現在に重ね合わせて読んでいたからかもしれない。
 筆者はこの本を読みながら、幾度も現在のウクライナの戦争を思った。前野の体験の核にあるものの一つは、ソ連=ロシアを相手にしたときの「言葉の無力」ということだと思われるが、それはウクライナの戦争でも同じではないか、と筆者は思うのだ。
 前野が感じた「言葉の無力」は、彼自身の取り調べ、起訴、裁判に際して、共通の地盤となるべき「法の支配」が存在しないことだった。ソ連における裁判は、調査官がいみじくも前野に言ったように、「政策遂行のための手段」に過ぎず、結論が先にあり、その結論を得るためにのみ調査し、法の解釈や論理を曲げても形式は整え、政治に奉仕するものだった。
 ウクライナ戦争も同じとは、次のことを指している。昨年3月にロシアのラブロフ外相は、ロシア軍のウクライナ侵略の真っ最中にもかかわらず、次のように語った。
 「われわれはウクライナを攻撃していない。ロシアの安全が脅威に晒されているのだ。……ロシアが戦争を望んだことは一度もない。ウクライナ市民は人間の盾にされている。人間の盾として人質になっている民間人を解放したい」。
 この言葉を聞いた世界の人びとは、啞然としてラブロフの正気を疑っただろうが、これに類する発言は、プーチンをはじめロシアの政治指導者によって繰り返されている。世界がつくりあげてきた共通の良識や動かしがたい事実を平然と無視し、手前勝手な議論をしまくるという鉄面皮な態度を見せつけられては、「言葉の無力」を感じるのはやむを得ないだろう。
 彼らの言葉が、政治的な強弁として発せられているのか、それとも頑迷な思い込みによるものなのか、世界の人びとは判断に迷うにちがいない。政治的強弁だとするには、彼らの態度には“うしろめたさ”が微塵も感じられないし、頑迷な思い込みのせいだとするには、彼らに“目覚める”時が訪れる気配は一向に見えないのだから。
 二つの「言葉の無力」は、原因も形も顕われ方も異なるが、言葉への信頼を失わせる点は変わりがない。言葉への信頼が失われるとき、剝き出しの暴力が世界を支配する。

(おわり)

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