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『ソ連獄窓十一年』補遺2 [本の紹介・批評]

▼「満洲国」がつくられたのは、なによりも日本陸軍の軍事的な必要からだった。しかし日本社会のなかにそれに先立って、満洲で「民族協和」「王道楽土」の理想を実現したいと考える思想や運動が生まれ、それらは関東軍の軍事的思惑と時には重なり、時には対立するような形で進行した。「民族協和」「王道楽土」の理想は言葉としては美しく、観念として崇高だが、それがいかなる形で実現し、あるいはしなかったのかを、「満洲国」の現実のなかで確認しなければならない。
 『キメラ』(山室信一)は同じ問題意識に立って、満洲国の現実がどのようなものであったのか調べているので、その記述を少し見ていきたい。

 山室は、「満蒙開拓団」に提供するために満洲国で開拓用地の買収にたずさわった男の手記を、取り上げている。男は「五族協和」「王道楽土」の理念に惹かれて満洲に渡り、大同学院を卒業してこの仕事に就き、戦後(1971年)その体験を振り返った。
 「土地に執着する農民の意欲を踏みにじり、号泣、跪拝しての哀願を圧殺して買収を強行し、二束三文の買収価格を押しつけなければならなかったとき、これではたとえ開拓団が入植したとしても、むしろ禍を将来に残すことを憂えるとともに、自己の行為に罪の意識を抱いた。」
 また満洲国最高検察庁がまとめた『満洲国開拓地犯罪概要』には、次のような吉林省の農民の証言が載せられているという。
 「行く処もない吾々に対し、十一月か十二月のころ家屋を渡せというのは、間接的に吾々は殺されたる気がする。実に哀れなものだ。」(朝鮮人農民)
 「匪賊は金品を略奪するも土地までは奪わず。満拓は農民の生活の基たる土地を強制買収す。土地を失うは農民として最も苦痛とするところなり。」(中国人農民)
 「十一月か十二月のころ」という言葉は、満洲の冬の厳しい寒さを念頭に読まなければならない。これらの記述や資料から、われわれは日本人の入植という満洲国建国のもっとも基礎的な部分で、土地の強制的な買収が行われ、民族協和ならぬ民族間の対立原因をなしていた事実を知る。
 敗戦時に27万人を数えた開拓民が入植したとき、その土地の多くは未開拓ではなく既墾地だったから、それはそこで働いていた現地の農民を立ち退かせた跡だったはずである。満洲の農地所有者の多くは都市に住んでいたから、彼らにとって農地の買収は金の問題に過ぎなかっただろうが、耕作に従事していた農民にとっては、生活基盤を一瞬にして失う問題だった。

▼満洲国では1940年に徴兵制を採用し、1942年には兵役に服さない壮年男子に、国家に対する勤労奉仕を義務付けた。徴兵と勤労奉仕を両輪として国民を錬成し、国家への忠誠を調達しようとしたのである。
 また1942年に、「一つ、国民は建国の淵源、唯神の道に発するを思い、崇敬を天照大神に致し忠誠を皇帝に尽くすべし」「一つ、国民は忠孝仁義を本とし民族協和し道義国家の完成に努むべし」等の5箇条の「国民訓」を制定し、学校で朗唱させた。
 学校儀礼は次のような構成だった。まず国旗掲揚があり(学校によっては日章旗も掲揚された)、建国神廟、日本の皇居、帝宮を遥拝し、日本軍の武運長久と戦没英霊のための黙禱、そして校長が先導して「国民訓」の朗唱と訓話、最後に建国体操――。
 こうした「国家意識の注入」は、はたしてどの程度の成功を収めたのだろうか?

 1945年8月17日、つまり日本の降伏が伝えられ、満洲国皇帝溥儀の退位と満州国解消が決定した日、建国大学助教授の西元宗助のもとに朝鮮人と中国人の学生が別れの挨拶に訪れた。彼らはそれぞれ、次のように語ったという。
 朝鮮人学生:「先生はご存じなかったでしょうが、済州島出身の一、二のものを除いて、われわれ建大の鮮系学生のほとんどが朝鮮民族独立運動の結社に入っておりました。しかし先生、朝鮮が日本の隷属から解放され独立してはじめて、韓日は真に連携できるのです。私は祖国の独立と再建のために朝鮮に帰ります。」
 中国人学生:「先生、東方遥拝ということが毎朝、建大で行われました。あの時われわれは、どのような気持ちでいたか、ご存じでしょうか。われわれは、そのたびごとに帝国主義日本は要敗――必ず負けるようにと祈っておりました。……私たちは先生たちの善意は感じておりました。それだけに申し訳ないと思っております。しかし先生たちの善意がいかようにあれ、……満洲国の実質が、帝国主義日本のカイライ政権のほかのなにものでもなかったことは、いかんながら明らかな事実でした。」
 満洲国の国立大学の学生という知的エリートの発言内容から、国民一般の意識を測ることは無理かもしれない。しかし彼らの発言が、国民一般の意識から乖離していたという証拠もない。「国民訓」を朗唱させたり、東方遥拝をさせたりという、いかにも「日本式」のやり方は、筆者の眼にもアホらしく感じられ、とても日本人以外の民族の納得と共感を得る方法だったとは思えない。
 この建大の学生の逸話の中に、満洲国の為政者が期待した国民意識の育成は見事に失敗を露呈している、と読むべきなのだろう。しかし建国大学の教育は、こうした批判的知性を育んだことによって、十分成功したということもできるだろう。

 山室信一は次のように書く。《満洲国を存続させようと努力した日本人が、そもそも「悪意」をもってそれに関わったとは私には思えない。それは日本人である私の僻目に違いないであろうが、人びとはみな、それぞれの場で、それぞれの仕方で満洲国に対して自分なりに「善意」を懐いていたように思われる。》
 筆者も山室の考えに賛同する。日本人の唱える「五族協和」は、山室が指摘しているように、互いの存在を認め合って「協和」するのではなく、日本人が他の民族に文明と規律を教え込むという意味のスローガンだった。異質なものの共存を目指すのではなく、日本人の考える規律へ服従させることをもって、協和の達成された社会とみなすものだった。一言で言えば、当時の日本人の満洲諸民族や日本民族への考え方は、きわめて独善的なのだが、その独善性を自覚できないほど「善意」だったということなのかもしれない。前野茂や武藤富雄や、その他多くの満洲国で活躍した日本人官僚たちは、その「善意」と「独善性」によって迷うことなく満洲国の建設に打ち込み、多くのことを成し遂げたのであった。

▼最後に関東軍の責任について一言して、この稿を終わりたい。
 前野茂は『ソ連獄窓十一年』の中で、ソ連軍が満洲に侵攻して来たとき、関東軍がその家族を鉄道でいち早く逃がしたことを、強く批判している。それはまったく正当な批判である。
 太平洋戦争の戦況悪化とともに多くの部隊が満洲から南方へ引き抜かれ、1941年7月の関特演当時70万の「無敵関東軍」を誇った戦力は、1945年にははるかに低下していた。ソ連軍から満州の日本人をどうやって守るか、現地死守か早期引き上げか、満洲国政府と関東軍は協議していたが、結論を出せないうちにソ連軍の満洲侵攻となったのである。非常事態に対処する計画をつくらず、満洲国政府にもつくらせなかったことは、まずもって批判されなければならない。
 そして満洲国の国防を全面的に委託された立場にもかかわらず、侵攻してきたソ連軍にまともな応戦をせず、その結果、開拓民をはじめ多くの満洲在住の日本人を無防備なままソ連軍の暴力の前に晒し、多くの悲劇を生み出した責任は、きわめて重大である。
 ソ連およびソ連軍について甘い理解を持っていた結果、六十万人近い抑留者を出したことについても、関東軍は責任を免れない。
 その無思慮、無能力、無責任は、時代を超えて、あらためて考えるに値するテーマだと思われる。

 (おわり)

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