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会津の旅 [旅行]

▼『守城の人』について書き継いでいたので、取り上げるのが遅れたが、先月10月18日(金)から20日(日)の3日間、会津地方を旅行した。金曜、土曜の2日間は、むかし或る時或る場所で知り合った仲間たちとの年1回の旅行会で、仲間は全国各地から集まる。旅行会を始めてもう30年ほどになるが、筆者はその事務局を担当している。最後の日曜日は筆者の一人旅で、裏磐梯に立ち寄る計画だった。
 10月18日から20日にかけて、天気は良くない、台風ではないが低気圧が近づいている、という予報だった。今年の台風は関東地方を直撃するものが多く、1週間前の大型の台風19号も東京の多摩川流域の何ヶ所かで浸水被害をもたらしており、福島でも阿武隈川が40ヶ所で決壊したと報じられていた。
 しかし全国に散らばる仲間との年1回の旅行であり、半年前に計画を立て、旅館や料亭の手配を終えてメンバーに連絡しているので、よほどのことが起きないかぎり予定を変えるのは難しい。幸い参加者の年齢を考慮して、初日は貸し切りバスで移動するプランにしたので、雨が降ってもまず問題はない。翌日土曜日の午前中さえ天気が持ってくれれば、旅行会は無事に終わる―――。

 いつ降り出してもおかしくない曇り空の下、メンバー12人は郡山駅前に昼過ぎに集合し、手配した小型バスに乗って猪苗代湖畔に向かった。郡山から会津の方に行く磐梯西線は動いていたが、東の方に行く磐梯東線は、台風19号による土砂崩れで不通となっていたのを見ても、われわれはついていた、と言うほかない。
 まず野口英世記念館に寄り、復元された生家を覗く。英世が1歳半の時に落ちて大やけどした囲炉裏や、医術開業試験を受験するために上京する際、「志を得ざれば再び此の地を踏まず」と決意を書き込んだ床柱があり、隣接する記念館でその人生と業績を説明していた。
 野口英世と言えば「黄熱病」の研究、と単純に記憶していたが、自分の理解は少し的を外していたらしいと思った。英世はニューヨークのロックフェラー研究所で、黄熱病の研究の前に梅毒の研究をし、その原因がスピロヘータによるものであることを解明した。次の課題が黄熱病で、彼はこれについても南米での研究に基づき、スピロヘータ原因説を立てたのだが、彼の開発した薬がアフリカでは効かないという指摘を受ける。そして研究に訪れたアフリカのガーナで、英世自身が黄熱病にかかり、昭和3年に亡くなった。
 英世はノーベル医学賞の候補に3回挙げられたが、残念ながら受賞を逸したと記念館の説明にあった。たしかに彼は、蚊が媒介するウイルスが黄熱病の原因だ、と突き止めることはできなかった。しかし梅毒スピロヘータの発見だけで、十分な功績ではないかと筆者は思う。少なくとも日本においてそれは、黄熱病ウイルスの発見とは比べものにならない大きな影響を及ぼしたのだから。

▼野口英世記念館から車で5分ほどのところに、有栖川宮が明治41年に造った別邸「天鏡閣」があり、公開されている。猪苗代湖は酸性が強く、プランクトンが発生しにくいため水が澄み、磐梯山などを湖面に映し出すので「天鏡湖」の別名があるのだそうだが、別邸の名もこれに由っている。
 建物自体は、現代のわれわれの眼にはどうというところのない木造の洋館だが、皇族が明治の終わりという時期に、農家が疎らに点在するだけのこの地に別荘を建て、観光開発のパイオニアの役割を果したという点は興味深かった。

 旅行一日目の最後に、「会津武家屋敷」に立ち寄った。幕末の会津藩家老・西郷頼母の屋敷などが再現され、生活調度品も置かれ、当時の上級武士の生活を窺うことができる施設だということだった。
 筆者が旅行前に仕入れた知識によれば、西郷頼母は悲劇的人物であった。松平容保が京都守護職を引き受けることに西郷は反対し、また鳥羽伏見の戦い以降の戊辰戦争で、会津藩が幕府側に立って戦うことに大反対した。しかし西郷の忠言は聴き容れられず、会津藩は新政府軍と戦う。西郷は白河口で戦うが敗れ、鶴ヶ城に籠城する藩士からは拒まれ、榎本武揚らとともに函館五稜郭に落ち延びるが、ついに敗北し、捕虜となる。新政府軍が城を攻囲した日、西郷の屋敷では母や妻、妹、娘ら一族の女21人が自決して果てた。
 明治5年に赦免された後は神社の宮司などの職に就き、晩年は会津若松の裏長屋で暮らし、明治36年、73歳で亡くなった。
 身寄りのなくなった西郷頼母が親戚から養子に迎えたのが、のちに講道館四天王の一人と謳われる西郷四郎だということを、武家屋敷に行って初めて知った。筆者は中学、高校時代に柔道をやり、当時は講道館四天王の名前を全員覚え、西郷四郎の必殺技「山嵐」とはどんな技だろうと、いろいろ思い描いたものだった。
 四天王の一人・富田常次郎の息子の富田常雄が西郷四郎をモデルに書いた小説が、『姿三四郎』である。
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 東山温泉に宿泊。

▼翌日、少し雨がぱらついたが風はなく、観光には支障がないようで、胸をなでおろした。路線バスで飯盛山に行き、山の階段を上り、白虎隊士が自決した場所から鶴ヶ城を眺めた。肉眼では城がどこか、なかなか判らなかったが、当時は他に高い建物もなく、一目でわかったのだろう。
 白虎隊の名は、中国で方位や季節を表わす四神に由来する。白虎隊は16~17歳の少年兵士、その上の朱雀隊が18~35歳で戦力の中心をなし、青龍隊は36~49歳、玄武隊は50歳以上という構成だった。隊はそれぞれ身分により、いくつかの小隊に別れていた。飯盛山まで退却してきたが、城の方角から立ち昇る黒煙を見て落城したものと思い込み、自刃した20名の少年たちは、中流の上の組の隊員たちだった。
 切腹という方法は、介錯という「自殺幇助」が伴わないと、それほど容易には死ねないらしい。飯沼定吉という少年は一人助けられて生き残り、白虎隊の物語を世に伝えた。飯沼は逓信省の技師として明治、大正を生き、昭和の初めに亡くなった。
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 路線バスに乗り、会津藩二十三万石の居城・鶴ヶ城へ行った。現在の城は、戦後再建されたものである。立派な堀沿いに歩いていると、思いがけず陽が差し、青空さえのぞく好天気となり、われわれの「運」の強さに今更ながら驚く。もう少し紅葉が進んでいたら最高だなと仲間と言い交したが、贅沢を言えばきりがない。
 予約していた料亭で昼食を取り、旅行会は解散。

 会津若松駅から磐梯西線に乗り、猪苗代駅で降り、バスで裏磐梯に行く。ネットを見て予約していたペンションに泊まる。呑み比べてみてくださいと日本酒を4種類ほど出され、馬刺しや豆腐の味噌漬けを肴に、いい気分に酔う。隣のテーブルについた夫婦らしき若い男女は、この宿の常連だと言い、冬は近くの檜原湖でワカサギ釣りをするのだと言った。

 翌日、五色沼周辺を1時間半ほど歩いた。五色沼とは磐梯山の明治21年の噴火で生まれた大小30余りの湖沼群の総称である。
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紅葉は、まだ盛りには少し早かったが、沼のルビー色の水に映えて美しかった。
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 満足して東京に帰った。

(おわり)

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