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シチリアの旅 10 [旅行]

▼帰国する朝、依頼してあったタクシーが、予定した時間になっても来ないので慌てた。
 前日、パオロ君に空港行きのバスの時間を調べてもらい、そのバスに間に合うようにタクシーを予約してもらった。ラグーザからカターニア空港までは1時間45分の道のりで、もし予定したバスに乗り遅れると飛行機にも乗れなくなる。 
 パオロ君はこのB&Bには住んでいない。(後から考えると、すぐそばに住居があるようだが。)朝8時に朝食の用意をしにやってきて、午前中に事務を片づけ、昼には帰ってしまう。だからこの日は朝食を食べず、鍵を1階広間のテーブルの上に置き、7時半前に扉を閉めて宿の前で待っていたのだが、時間を10分過ぎてもタクシーが来ないのだ。
 御用のある方はこちらに電話を、と扉に書かれた番号に電話すると、パオロ君が出た。タクシーが来ないことを告げると、ちょっと待ってくれと言って電話を切り、折り返しメールが入った。「5分間でタクシーが行くよ」とあった。
 正確に5分後、車が目の前に停まり、運転していた年配の男はタクシーだと言った。スーツケースを押し込み、乗りこむと、車は猛烈な勢いで走り出した。助手席に座った筆者は、途中で何度も脚をぐっと突っ張らせて、ブレーキを踏み込むしぐさをしなければならなかったが、車はバスの出発直前に到着し、われわれは無事にバスに乗ることができた。
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【シラクーザの夜明け。部屋の窓から】

▼シチリアの旅を終え、次の旅行に備えて技術的な総括をしておきたい。
 まず外貨の問題だが、以前は円をユーロのトラベラーズチェック(TC)に換え、持参していた。
 しかしイタリアではTCを扱う銀行が少なく不便なこと、銀行や民間両替屋ではかなりのコミッションをとられることから、TCの購入は前回からやめた。しかしかなりの額のTCが手許にあったので、外貨調達の方法は差し迫った問題ではなかった。
 今回はイタリアで普及しているATMを利用しようと考え、3枚のカードを用意して行った。
 1枚はCITI BANKのキャッシュカードで、これは外国の銀行のATMからも現地通貨を引き出せるいわゆる「国際キャッシュカード」である。引き出したユーロは一度ドルに換算され、それをさらに円に換算して自分の円口座から引き落とされる。数年前の旅行で1度だけ使用したことがある。
 2枚目は、三菱東京UFJの「VISAデビット」カード。引き出したユーロの額は即日自分の円口座から引き落とされる仕組みで、為替レートはVISAのレートに3%上乗せしたものである。引き出すごとに手数料108円がかかる。
 3枚目は普通のVISAのクレジットカードである。ユーロを引き出せば、ユーロでの借金(リボルビング)ということで、年率18%の利息がかかる。

 CITI BANKのカードは、なぜか使えなかった。帰国後、CITI BANKにカードを見せて尋ねたが、カードの磁気は正常で問題がないという。結局、使えなかった原因は分からず、カードの再発行を受けた。
 三菱東京UFJの「VISAデビット」カードは、問題なく使用できた。帰国後調べると、1ユーロは139~140円という換算レートになっており、それに108円の手数料が加わる。
 クレジットカード(VISA)も問題なく使えた。帰国後すぐに借金分を清算したので、利子分も含めた1ユーロの換算レートは136円で済んだ。
 旅行中の円/ユーロ為替レートを調べるとだいたい135円前後だった。したがって短期の旅行の場合、クレジットカードでATMから外国通貨を引き出し、なるべく早めに返済するのがもっとも有利、という結論となる。
また、カードとATMとの「相性」の問題もあるようなので、安全のために複数枚準備するのが望ましいだろう。
 (なおアメリカン・エクスプレスは現在TC発行を止めており、過去に発行したTCを持ち込むと、現金に換えるのに5%の手数料を取るようになった。けしからん話だ。)
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【ラグーザの貴族の館のベランダを支える「持ち送り」の装飾】

▼次に旅行の時期の問題である。
 シーズンを外して旅行することの長所は、宿泊料金が安いことと、観光客が少なく観光施設が混雑しないことの2点であろう。
 一方短所は、天候が不安定で、良い天候のもとで訪れるなら素晴らしい体験となったはずの景色が、悪天候のもとで台無しになったり、訪れること自体が不可能になりやすいことである。
 しかしシーズン中でも悪天候に見舞われることもあれば、シーズン外に好天に恵まれることもあり、多分に運に左右される。
 筆者はこれからの旅行では、観光客の少なさという点を重視して時期を選びたい、と思っている。シーズン中ならば多くの観光客がどっと押しかける景色や施設を、自分ひとりで享受するという贅沢の味は、一度味わうとやめられなくなる。
 シーズン外の旅行には、レストランや交通機関が店を閉めたり運行を減らしたりして、選択肢が狭まるという問題もあるが、それは観光客の多さと見合いの問題なのだから、どちらかを選択するしかない。
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▼次に「スマホ」の問題である。
 以前の旅行では、街なかでガイドブック「Lonely Planet」を読んでいる観光客をよく見かけたが、今回の旅行中は観光客自体が少なかったこともあるが、見ることはなかった。その代わり旅行者が頼りにし利用していたのは、「スマホ」だった。
 ラグーザでタクシーを降りてから宿を探すとき、少し迷った。タクシーの運転手は「1分」で着くと言ったのに、それらしい宿は現れなかったからだ。
 うろうろしていると、写真を撮っていた男女が親切にも筆者に声をかけ、自分のスマホで地図を出し、それを拡大したり縮小したりしながら、この道を行けばよい、と示してくれた。
 スマホを使っている旅行者には、あちこちでお目にかかった。日常的にスマホを使っている者にとって、それは写真を撮り、通話し、道を調べ、説明や案内を読むための便利な道具なのだろう。しかし便利すぎる道具には、便利すぎるゆえの「落し穴」はないのだろうか。
 少なくとも日常的にスマホを使用していない者にとっては、持参してもその取扱いに多くの時間と注意力をそがれるわけで、得られるものと失うものの差引収支を黒字化するのは、かなり難しいように思う。
 また、仮に日常生活でスマホを便利に使いこなしていたとして、その機能をフルに活用することが旅行にとって望ましいかどうか、疑問は残る。旅行の楽しさの大きな部分が予期せぬ出会いや、あらかじめ計算できない出来事の出現にかかっているとしたら、便利すぎる機能の持ち込みは、旅の面白さを減殺する効果をもつような気がするのだ。
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(おわり)

シチリアの旅 9 [旅行]

▼前回、タヴィアーニ兄弟の映画「カオス・シチリア物語」に触れたので、ルキーノ・ヴィスコンティの映画「山猫」(1963年)にも少し寄り道したい。
 この映画は、「山猫」を家紋とするシチリア貴族の物語だが、同名の原作小説をかなり忠実に映像化したものである。原作者トマージ・ディ・ランペドゥーサはシチリアの本物の名門貴族であり、この一作で世界に広く知られるようになった。小説が刊行されると(1958年)作品の評価をめぐり、肯定否定の興奮した論争がイタリアで巻き起こったというが、この時すでに彼は亡くなっていた。

 物語は、1860年の5月、サルデーニャ王によるイタリア統一戦争が始まり、ガリバルディの義勇軍「千人隊」がシチリアに上陸するという時代を背景に、主人公・サリーナ公爵の日常生活と思考を描く。主人公の甥・タンクレーディが公爵のもとを訪れ、自分はガリバルディ軍に加わる、と言う。そのとき彼の口から出たのが、「変わらずに生き残るためには、みずから変わらなければならないのです」という謎めいたセリフだった。
 このセリフは日本では、「日本人が経済的繁栄を維持しつづけたいなら、自己変革の勇気をもって現状に立ち向かわなければならない」という意味で小沢一郎が使用し、よく知られるようになった。
 しかしヴィスコンティの映画でもランペドゥーサの小説でも、このセリフの意味は小沢流の「自己変革の勇気」とはまったく関係ない。貴族であるタンクレーディやその仲間が統一戦争に参加することで、過激な共和主義者の影響力を抑えることができるという政治のリアリズムが、語られているのだ。セリフを正確に引用すると、次のようなものだ。
 「もしわれわれが参加しなかったら、連中はこの国を共和国にしてしまいます。すべて現状のままであってほしいからこそ、すべてが変わる必要があるのです。ぼくの言うことがおわかりになりましたか?」
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【ミルト邸の入口。パレルモに残っている貴族の館は、結婚式などのセレモニー用に貸し出されたりするものの、一般の見物用に開放されているものは少ない。ミルト邸は開放されているものの一つ。】

▼「山猫」は、公爵の領地の村の村長で実業家である男の娘・アンジェリカとタンクレーディの婚約をプロットのひとつに組み込みながら、サリーナ公爵の生活と思考を描写する。そしてさる貴族の館で催された舞踏会の場面で山場を迎える。
 山場といっても、事件が起こるわけではない。激動期に遭遇した貴族階級の生活を描いてきた物語が、貴族生活の華といえる舞踏会をていねいに描き出し、それを通じて古い体制の崩壊と新しい時代の到来を暗示するのである。

 舞踏会は深夜に行われる。サリーナ公爵は「まだちょっと早い時間」の10時30分に、会場のポンテレオーネ邸に到着した。通常はもっと遅い時間に現われる公爵だったが、この夜は甥の婚約者を社交界に登場させる大事な夜会なので、早く来たのである。アンジェリカの父親は新興ブルジョア階級だから金は潤沢に持っていたが、貴族階級のしきたりには通じていない。《彼らは、招待状に記された時間を、額面通りに受け取る連中なのだ。》

 アンジェリカの社交界デヴューは大成功だった。彼女の美貌、態度の優美さ、会話に見せる頭の良さは人々を驚かせ、彼らから暖かく迎えられた。紹介されることを求めて、若者たちがおおぜい周りに集まった。アンジェリカは感謝の思いを込めてサリーナ公爵にダンスの相手を頼み、二人のワルツは人々の注目を浴びた。

 《舞踏会は長く続いた。そして夜は明け、朝の六時になった。みんなへとへとになっていた。誰も三時間ほど前から、床に就きたいと思っていた。しかし早めに退散することは、パーティは不成功だったと公言したあげく、気の毒にもたいへんな苦労をした、当家の住人たちの心を傷つけるようなものだった。
御婦人たちの顔は土色になり、衣服は皺だらけ、吐く息は重たげであった。》

 小説『山猫』によれば、社交の季節にはパレルモで、こうした舞踏会が頻繁に開かれた。「社交界を形成する200人の男女」は、いつも同じメンバー同士顔を合わせ、リソルジメント(国家統一期)の激動を乗り越え生き残れた幸運を、喜び合った。
 貴族たちは貴族であり続けるために、「衒示的消費」と「社交」に身をすり減らさなければならない。読者はこの舞踏会の場面から、彼らが新興ブルジョア階級の合理的勤勉さの前に滅び去る必然性を、時代の流れとして感じ取ることだろう。
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【ミルト邸の部屋】

▼原作の小説『山猫』は大げさな比喩や表現が多く、現代の抑制的な文章に慣れた者の眼には、かなり抵抗感がある。しかしそれはともかく、この小説は「貴族」というものの生態を理解するのに有意義な説明を、新興ブルジョアの男との対比の中で示している。

 《公爵にはとうてい解決不可能に思われるような多くの問題が、ドン・カロージェロの手にかかると、あっという間に解決されてしまった。誠実、品位、そしておそらくは教養といった、ほかの多くの人びとの行動を妨げている足枷には、少しも囚われることのないこの人物は、人生という森の中を、木々を薙ぎ倒し、獣たちの巣を踏みつけながら、一直線に邁進する象のように、自信をもって突き進んでいた。………〈恐れ入ります〉〈いやはや、痛み入ります〉〈ちょっとお願いがあるのですが〉〈これはどうも御親切に〉などといった、慇懃な言葉の風の行きかう、心地よい谷間で育った公爵は、こうしてドン・カロ―ジェロと雑談を交わしていると、空っ風吹きすさぶ荒野に身を曝しているような気持になった。》

 一方ドン・カロ―ジェロは、公爵の人を惹きつける力が、その上品な立居振る舞いから来ていることに気づくようになる。万事に女性を優先させる振る舞いは、それまで彼が信じてきたのとは反対に、男の弱さではなく余裕と力の証しであった。むき出しの感情や欲望を洗練された表現でたくみに包む話術は、話し相手の気分を良くするだけでなく、さりげなく気づかう当事者にも利益をもたらす、ということも理解した。
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 作者は、滅びゆく貴族階級と台頭する新時代の人々の、どちらに肩入れするわけでもない。「三世代もすれば有能な田舎者は、自分の身を守る術をもたない紳士に変わってしまうのである」と、冷徹な観察者として述べている。

(つづく)

シチリアの旅 8 [旅行]

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▼シラクーザの新市街地の方にギリシャ時代の遺跡があるというので、次の日に見に行った。ギリシャ・ローマ時代に石を切り出した石切り場やギリシャ時代の劇場の跡を歩き、死者を葬ったカタコンベを見た。
 ギリシャ・ローマ時代の死者は、香油をふりかけ布でくるみ、地下に掘られた巨大な墓地に横たえることで葬ったらしい。地下の通路の両側に死者を横たえた窪みがあり、通路は迷路のように四通八達、迷子になるから離れないように行きましょうと、カタコンベのガイドは言った。

 また、前から見たいと思っていたカラヴァッジョの「聖女ルチアの埋葬」の絵は、シチリアの「州立美術館」ではなく、ドゥオモ前の広場の南の端にある小さな教会(サンタルチア・アッラ・バディア教会)の、正面の祭壇に架けられていた。それと知らずに教会に入ったのだが、観光客も少なく、ゆっくりと絵を見物することができた。

▼2月14日に今回の旅行の最後の都市・ラグーザへ、鉄道で移動した。一般にシチリアではバスでの移動の方が便も多く、鉄道よりも便利なのだが、例外的にシチリアからラグーザへは、鉄道の方が短時間で行けるのだ。2時間ほどでラグーザ駅に着き、タクシーで宿に向かった。運転手はかなりの年寄りで、言葉はシチリアなまりが強いのか、ほとんど聞き取れなかった。
 彼はぐるりと街を回るように車を走らせ、どこかで見覚えのある教会の前に車を停めた。「ウンミヌート」と彼は言い、われわれの宿はそこから1分で行けると言っているようだった。なぜ車が宿の前まで行かないのか、という理由も説明していたようだが、よく分からなかった。
 しかし筆者は礼を言ってタクシーを降り、教会を見上げた。椰子の木のうしろにバロック式の教会が建つ印象的な光景が、映画「カオス・シチリア物語」の中に出てくるが、その実物に再会したのである。
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▼筆者のラグーザの宿もB&Bであり、パオロという名の若者が迎えてくれた。入り口の扉を開けて中に入ると、宿泊人が誰でも使える広間のような広い部屋で、趣味の良い品で飾られていた。壁に「カオス・シチリア物語」の映画のポスターが貼ってあった。
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 階段を上がるとそこにも小さな広間があり、宿泊者の部屋は階下に一つ、二階に二つの計3部屋のようだった。ずいぶんと贅沢な造りの宿だと、感心した。
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【原タイトルはただの「カオス」。アグリジェント近くの地名だという】

 ガイドブックによれば、ラグーザの街は17世紀末にシチリアの南東部を襲った大地震で壊滅した。人々はその後、当時支配的だったバロック様式で街を再建したが、それまでの街とは別に、隣接する高台に新しい街を計画的に造った。再建した古くからの街はラグーザ・イブラと呼ばれ、新しい街はラグーザ・スーペリオーレと呼ばれ、二つの街は急な階段で結ばれている。わがB&Bはラグーザ・イブラにあった。

 ラグーザ・イブラのレストランで昼食を取ったのち、ラグーザ・ス-ペリオーレに向かって歩いた。高台の街は目の前に見えているから方角を間違えることはないが、ラグーザ・イブラの道は細く曲がりくねっているので、二つの街を繋ぐ階段に行きつくのはそう容易ではない。夢中で上へ上へと道を選んで歩いているうちに、直線的で平坦な道路となり、高台の街に着いたと分かった。どうやら二つの街を繋ぐ道は、1本ではないらしい。
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 帰りは方角の見当をつけて、下り勾配の道を選びながら歩いて来ると、「階段の聖母教会」Santa Maria delle Scaleと書かれた標識があり、はたしてその教会は階段途中の崖の縁に建っていた。教会の脇から下を見ると、ラグーザ・イブラの街が一望のもとに眺められた。
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 しかしこのラグーザにしろ、エンナやその周りの街にしろ、どうしてイタリア人は尾根の上に街を造ったのだろうか。日本では尾根から流れる雨水が造りだす扇状地に住まいを造るのに、彼らは平地をほとんど確保できないような尾根の上に寄り集まる。
それは外敵から身を守るためだったのだろうか、水は尾根の上でも容易に手に入ったのだろうか、と景色を眺めながらその奥にあるものを楽しく想像した。
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▼翌日、朝食を食べながらパオロ君に、「カオス」はいい映画だった、と話しかけた。彼は、「ああ、ピランデッロの………」と言って、にっこり微笑んだ。映画監督のタヴィアーニ兄弟の名前ではなく、原作者の名前で話を返してきたのが少し意外だったが、シチリアの誇る作家の存在が、彼の中では有名な映画監督よりも大きかったのだろう。

 映画「カオス・シチリア物語」(1984年)は、パオロ・タヴィアーニとヴィットリオ・タヴィアーニの兄弟監督が、ルイジ・ピランデッロの短編小説6話を映像化したオムニバス映画である。その4話目「レクイエム」で、貧しい村人たちが村に墓地を造ることを認めてもらいたいと県庁に押しかけ、座り込むのが、サンジョルジョ大聖堂の前の広場、つまり筆者がタクシーを降りた場所だった。
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 「カオス・シチリア物語」は、人の生のさまざまな断面を静かに示すことで、生きることの豊饒さ、滑稽さ、つらさ、残酷さを描いた映画である。
 エピローグでは初老の原作者を登場させ、亡き母の幻に向かって「母さんがぼくを思ってくれたから生きられた」と、生きることのつらさや疲れを語らせているが、全体に甘さ控えめ、上等な味わいに仕上がっているところが、監督の腕なのだろう。

(つづく)

シチリアの旅 7 [旅行]

▼カターニアはパレルモに次ぐ、シチリア第二の都市である。しかし筆者の旅程ではシラクーザへ行くための途中下車ぐらいのつもりで、宿も便利さを考え、バス・ターミナルから歩いて数分のB&Bにした。
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 B&Bを利用する良さのひとつは、イタリア人のふつうの住居を知る面白さにある。筆者が泊まったのは前庭のある4階建ての集合住宅の1階だったが、部屋に行きつくためには表の鉄の扉、庭側に入るもう一つの鉄の扉、住宅に入る扉、そして部屋の扉と、4つの扉を開け閉めする必要があった。鉄扉が2枚あるのは例外的だろうが、それは都市の集合住宅には珍しい前庭が付いているためで、部屋に入るまでに3回扉を開け閉めすることは珍しくないようだ。エンナでも扉は3つ、アグリジェントでも3つあり、鍵をそれぞれ覚えるのがひと仕事だった。
 一番外側の扉はふつう、インターホンで帰宅・来宅を伝えると、遠隔操作で開けてくれるようになっているが、インターホンの先に人がいなければ、やはり自分で鍵を回して開けなければならない。

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部屋で一服したあと、街の中心のドゥオモ広場へ行った。これまで見てきたパレルモの旧市街や、アグリジェント、エンナの古い街並みに比べ、カターニアの道路は広く、街はきれいな印象だった。広場からまっすぐ北に伸びる道路のずっと先に、雪をかぶったエトナ山らしきものが見えた。
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 広場の近くには生鮮食料品の店が並ぶ一画があり、その片隅にあるレストランで遅い昼食をとった。魚料理を専門にする店で、日本の食通のあいだで評判の高い店だと、あとで知った。
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【アンティパスト(オードブル)として注文した品はいずれも海の幸】

▼翌朝は薄曇り。荷物を宿に置いて街を2時間ほど散歩した後、バスでシラクーザへ移動した。
 シラクーザは名前こそ古代から有名だが、「観光地」として整備が進んだのはごく最近のことのようだ。
 18世紀末の旅人・ゲーテの時代は、およそ訪れるに値する土地とは認められていなかったようである。『イタリア紀行』には、次のように書かれている。
 《………私たちはこの勧告に従ってシラクサ行きを中止することにした。それというのも、この立派な街も今はその光輝ある名前以外には何も残っていないということを知っていたからである。》

 ゲーテはカターニアから北に曲がり、イタリア本土へ戻る港町のメッシーナへ向かったが、筆者たちは南に曲がりシラクーザに来た。そしてオルティージャ島の先端近くにあるホテルの、海の見える部屋に泊まることにした。
 オルティージャ島はシラクーザの旧市街地で、新市街地とは橋で結ばれ、観光資源の半分以上が存在する小さな島である。
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▼筆者がシラクーザで見たいと思っていたのは、ドゥオモ前の広場の風景とパピルス紙だった。
ホテルを出て気ままに通りを歩いていると、いきなり道の左側が開け、その空間はさらに奥の広場へと繋がっているように見えた。胸の期待を静めながら、白い石造りの建物に囲まれた空間を奥に行くと、はたしてドゥオモを中心とした広場が現われた。
 石造りの高い建物に囲まれた空間に置かれることで、ひとは不安な落ち着かない心理に陥ることもあるだろう。しかしこのとき筆者を包んでいたのは、密かな安心感とやすらぎだったように思う。
 オフ・シーズンのため、観光客の姿はほとんどない。すばらしい風景をひとり享受するという贅沢に、しばらく静かに浸っていた。
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 ドゥオモ広場の近くに「アレトゥーザの泉」があり、そこにパピルスが自生していると、ガイドブックに書いてあった。「アレトゥーザの泉」は海岸に隣接する小さな池だが、池の水は湧き水のために真水であり、水の中に根と茎の多くを沈めた格好で、カヤツリグサ  のような植物が生えているのが見えた。
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 翌日「パピルス博物館」に行くと、パピルス紙の作り方が映画と実物展示で説明されていた。パピルスの茎は直径2~3センチ程度の太さだが、緑色の外皮を剥くと中から繊維質の多い白い芯が現われる。この白い芯を薄く縦に何枚にも割り、たてよこ格子状に重ねて並べ、上から重いローラーやプレス機で圧力をかけると、一枚の「紙」になるのだという。
 土産物としてパピルス紙に描いた絵を売っているアート・ギャラリーを覗くと、女性が水彩画を描いているところだった。パピルス紙は水彩に滲むこともなく、表面に繊維の模様は浮き出ているが、説明されなければそれと気づくこともない、薄い立派な「紙」だった。

(つづく)

シチリアの旅 6 [旅行]

▼翌朝起きると、空は曇っていた。8時にアルフォンソ君が部屋に来て、テーブルにクロスを敷き、ワゴンから朝食を出して並べた。卵料理やハム、サラミ、チーズを何種類もそろえた立派なもので、ジュースも数種類、ジャムも数種類あった。
 花祭りのことを聞くと、今年は寒いので1週間後だ、という。祭り自体には興味はないので、昨日「神殿の谷」で見た花で十分満足している、と筆者は言った。
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【アグリジェントの街は丘の斜面に造られているため、いたるところに階段がある。】
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 朝食後、街を散歩していると、雨が降り出した。バス・ターミナルに行って、明日のバスを調べるが、直接エンナまで行くバスはなく、カルタニセッタで乗り換える必要がある、と若い事務員が紙に書いて説明してくれた。

 鉄道駅は帰り道にあるので、立ち寄って駅員を探した。ホームの傍らに駅員の詰所のようなところを見つけ、中にいた駅員らしい男に、明朝、エンナに行く電車はないのか、と聞いた。男は「ドマッティーナ(明朝)か?」と2回念を押し、「9時10分発がある」と言った。「切符を買いたい」と言うと、バールで売っている、という返事だった。
 列車があるのに、なぜ駅に掲示された時刻表に載っていないのか、それとも月曜日だけの臨時便がたまたまあるということか、疑問は残ったが、これだけ念を押した末の回答なのだからと、信用することにした。バールで切符を手に入れ、雨は降り続いていたが、明るい気分で宿に戻った。

▼翌朝、雨は上がっていた。タクシーで駅に行き、1両だけの電車に乗り込む。乗客はわれわれと女性が2人だけ。電車は20分遅れて9時30分に発車したが、何の説明もなかった。
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 シチリアの鉄道はまったく衰退している。まともに走らせないから客は離れ、客がいないからいっそう経営が困難となる。ひと気のない立派な駅舎と落書きで汚れた古い車両が、シチリアの鉄道事業の悲しい現在を語っている。

 電車は12時過ぎにエンナ駅に着いた。駅前には人家も店舗もなく、斜めに見上げる崖の上にエンナらしい街の一部が見えた。バスを待っていると、白いものが空から少し降ってきた。
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 エンナは、海抜千メートル近い高さにある県庁所在地である。寒いだろうと覚悟していたが、雪に降られるとは思っていなかった。バスがなかなか来ないので、電話でタクシーを呼び、エンナの街に向かった。

▼ゲーテの『イタリア紀行』を読むと、ゲーテもパレルモからアグリジェント(当時の名前はジルジェンティ)へ行き、それからエンナ(当時の名前はカストロ・ジョヴァンニ)を通ってシチリア島の東海岸・カターニアに抜ける経路をたどっている。
 イタリア旅行はゲーテにとって、ワイマール公国での煩雑な政治生活を逃れ、詩人としての再生を果たす画期となった出来事といわれている。彼は憧れだったイタリアの各地を約20か月かけて旅行するが、1787年の春にはシチリアに来ていた。
 だがアグリジェントからエンナへの行程は、雨にたたられ、道はおそろしく悪く、そのうえエンナにはロクな宿屋もなく、散々だったようである。
 《漆喰の床で板張りの部屋には窓がないので、私たちは暗闇のなかに座っているか、或いは戸を開けてたった今逃れてきた霧雨をまたもや忍ばねばならぬという有様だった。………みじめな一夜を送ったのだ。》

 筆者のエンナの宿は、古風ではあるが落ち着いた民家のB&Bで、クリスティーナとジュゼッペという中年の夫婦が迎えてくれた。部屋に荷物を置き、鍵の使い方の説明を受けて外に出ると、雪は本格的な降りになっていた。
 昼食を済ませ、街のはずれのロンバルディア城を見に行った。途中、谷を挟んで隣の丘に建つカラシベッタの街が、雪の中に浮かんで見えた。
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 城の周りは風が強く吹き、雪が舞い、人の姿はなかった。城の中の塔に昇るとエンナの街が一望できるということだったが、入り口は閉鎖されていた。
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 翌朝は雪がやみ、陽の光がさしていた。クリスティーナの話では、エンナは寒いところだが、雪が降ることはめったにない、とのこと。どうりで昨日行き交った街の人々の歩き方も、雪に慣れているようには見えなかった、と納得する。
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 朝食後、雪の街を歩くと、隣の丘のカラシベッタの街が美しく輝いていた。もう一度、ロンバルディア城まで歩き、ドゥオモの中を見学し、宿に戻った。
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 ジュゼッペが車でバス・ターミナルまで送ってくれ、バスでカターニアに向かった。

(つづく)

シチリアの旅 5 [旅行]

▼2月7日にバスでアグリジェントへ移動した。
 パレルモでは、モンレアーレの丘陵やペッレグリーノ山からコンカ・ドーロ(黄金の盆地)といわれるパレルモの街を見たいと思っていたのだが、毎日のように降っては止みを繰り返す雨に妨げられ、その機会を持てなかった。この日も朝は晴れていたのに、バスが出発する10時半ごろ、明るい空からにわかに雨が落ちてきた。
 イタリアには Quando piove col sole le vicchie fanno l’amore. ということわざがあるらしい。直訳すると、「陽が照っているのに雨が降るとき、老婆たちは色気を出す」ということだが、バスの中で辞書を開いて偶然見つけ、タイミングの良さに笑ってしまった。
 びっくりするような珍しい現象のたとえなのか、びっくりする現象だがよくあることだという意味なのか、どちらに意味の重点があるのかは知らない。

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 窓の外には、オリーブの樹を規則的に植えた畑が、ところどころに見られた。ブドウ畑はなく、オレンジの樹やアーモンドの樹もほとんど見られない。大きなサボテンが群生している場所があるが、栽培しているものかどうかは分からない。
 大地の起伏に添って、丈の低い若緑色の草が広がる光景が続く。シチリアの大地は土色の荒野が多いが、雨の多い季節のみ例外的に若草色に染まる、と何かで読んだ記憶がある。
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【風力発電の風車がいくつも回っていた】
 道中、少し降っていた雨もやみ、2時間ほどでアグリジェントに着いた。タクシーで宿に着き、入り口の呼び鈴を押すと若い男が顔を出し、笑顔でわれわれを招じ入れた。

▼アグリジェントでのわれわれの宿は、「B&B」である。シチリア旅行では合計4カ所の「B&B」に泊まることになったが、いずれも集合住宅の2~3部屋を使っての「B&B」経営のようだった。
 われわれの「B&B」の経営者・アルフォンソ君は、12階建ての集合住宅(いわゆるマンション)の1階に住み、その11階で2部屋の「B&B」を経営している。(他の階にも部屋を持っているかもしれない。)彼は宿泊客への応対や説明などは自分で行うが、部屋の掃除やベッドメーキングは掃除のおばさんを頼み、朝食も近くのカフェから運んでもらっているようだった。
 宿泊客には鍵を渡し、自分で管理するように依頼するから、「B&B」経営者の労働時間は日本の「民宿」経営に比べ、ずいぶんと少ないように見える。日本の「民宿」の場合、朝食だけでなく夕食を出すということもあるが、ホストは彼の時間のかなりの部分を、宿泊客の世話に追われるのではないか。

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 案内されたのは、11階の広い、眺望のすばらしい部屋だった。建物が崖地の端に立っているため、窓からの視界を遮るものは何ひとつなく、眼下に広がる眺めは3~4キロ先の海まで続いている。
 広い部屋にはベッドはもちろんだが、テーブルと椅子、ソファー、ピアノまであり、朝食もこの部屋で、景色を見ながらとってもらいます、とアルフォンソ君は言った。思いもしなかった好待遇に筆者は「素晴らしい!」を連発し、彼は満足そうに帰って行った。

▼明日は天気が怪しいという予報を聞いたので、「神殿の谷」Vale dei Templi に今日のうちに行くことにした。部屋で軽く昼食を済ませ、さっそく外に出た。通りを歩くと多くの階段があり、アグリジェントの街全体が丘の斜面に建てられていることが分かる。
 じきに鉄道駅の前に出た。立派な建物だが、鉄道員の姿はなく、乗客の姿もない。バールが一軒と売店が一つあるが、バールにクジを買いにきた男が2人、コーヒーを飲みながら店主と話をしているだけで、駅は閑散としている。
 待合室の上部に設置された小さな画面に、時刻表らしきものが表示されていたが、その中にエンナEnna行きの列車はないようだった。エンナまで鉄道が利用できないなら、バスを乗り継いで行くしかない、それは明日調べよう、と考えた。

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 駅前からバスに乗り、神殿の谷の入口で降りた。青空の下、まっすぐに続く道の先に、ギリシャ神殿の往時の姿を最も残している「コンコルディア神殿」が見えた。道に沿って設けられた広い緑地には、アーモンドの花が咲いている。そして緑地のかなたにアグリジェントの街が、午後の日を浴びて広がっていた。

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 2500年前、ギリシャ人は海に近いところに都市をつくり、神殿を設けた。古代の植民都市が滅びた後、シチリアの人々は海から少し離れた丘陵の斜面に、自分たちの街をつくったのだ。
オフ・シーズンのため、ごく僅かな観光客しかいない。ギリシャ神殿の遺跡を見上げながら、「贅沢」というものの味をしみじみと噛みしめた。

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(つづく)

シチリアの旅 4 [旅行]

▼竹山博英『シチリアの春』によれば、19世紀末から20世紀初頭にかけてのパレルモはイタリアの地方都市ではなく、イタリアを代表する国際都市だったという。イタリアで初めてガス灯がともったのはパレルモであり、はじめて公立公園が作られたのもこの街だった。
 当時、ヨーロッパには王族を中心とした貴族の社交界があり、シチリアの貴族もその中に属していた。パレルモは気候が温暖なため、ヨーロッパの王侯、貴族、大富豪、芸術家たちは、避寒地としてこの都市を専用のヨットで訪れた。
 まだ海上交通の盛んな時代であり、専用の高級ヨットを持つことはステータスシンボルだった。彼らはシャモニー、カンヌ、ニース、モンテカルロなどの保養地ですでに知り合いであり、パレルモではシチリアの貴族や大富豪から熱いもてなしを受けた。

 19世紀末から20世紀初頭には、パレルモの経済的な活気と富を背景に、美術の世界でも活発な活動がなされた。市立近代美術館に展示されている絵画を見れば、印象派風の明るい絵が盛んに描かれていたことがわかる。
 ヨーロッパの美術館に行く楽しみのひとつは、超一流ではないが一流の、日本では知られていない画家たちの作品を見ることである。ロッコ・レンティーニ、アントニーノ・レート、ミケーレ・カッティ、エットーレ・デ・マリア・ベルグレルなど、初めて聞く名前だが、筆者は彼らの作品に時代の息吹を感じとり、楽しく見てまわった。
 玉の絵は近代美術館には1点しかないが、他のいくつかは『ラグーザ・玉』(加地悦子 昭和59年)に収録されているカラー写真で見ることができる。彼女の作品を同時代の絵のなかに置くと、モチーフの保守性、画想の古くささは歴然としているように見える。
 彼女の絵は展覧会で第一席に選ばれたのだから、その技術は当時の画壇で高く評価されていたのだろうが、筆者には残念ながら絵としての今日的魅力に乏しいように思われた。

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【旧市街の中心・クアトロカンティ】
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 現在のパレルモは活気に乏しく、過去によってのみ支えられた街のように見える。とくにその旧市街は、主要な道路も狭く、その他の道は曲がりくねり、石造りの建物は古び、いたるところにある教会やモニュメントも、ほこりをかぶって黒ずんでいる。タクシーに乗ったら、運転手が言い訳でもするように、「新市街の方はもっときれいなんだが………」とつぶやいていた。
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【下の階は使われているが、上階は空き家の建物】

▼玉が異国の地に、50年間とどまり続けることができた理由は何なのだろうか。
 そのことは玉が帰国した昭和8年当時から、関係者のあいだで盛んに議論されてきた問題だった。
 第1は、夫であるラグーザとの強い結びつきである。そのことに異議を挟む者はいない。
 第2に、彼女が絵を描くという好きな仕事を持ち、収入があったことだろう。
 第3に、彼女がパレルモの街の人々と親しい関係を築いていたことも、理由のひとつにちがいない。パレルモに行って玉に最初にインタビューした大阪毎日新聞の記者は、のちに次のように語っている。(『ラグーザ・玉』加地悦子)
 《パレルモ中のどの店に行っても、表を歩いていても、コーヒーを飲みにちょっと店に入っても、お玉さんをみんな知っていました。「セニョーラ、ボンジョルノ、セニョーラ」って言うんですよ、町のひとみんなが。土地で信望があるんです。》
 そして第4に、玉個人の辛抱づよい性格を重要な要素として挙げなければならないだろう。それはあるいは明治日本の女性一般に通じるもの、と考えるべきかもしれない。
 理屈で行動を決める男は、容易に挫折するが、理屈で動かない女は、簡単には折れない。明治のオンナは強かったのだ、と思うと、筆者は妙に納得できた。

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▼テアトロ・マッシモを見に行った。オーケストラがリハーサル中で、観客席の照明は暗いままだったが、観客が幕間に休憩する部屋や貴賓席を案内してもらい、覗くことができた。
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 テアトロ・マッシモは、19世紀末にパレルモの大富豪・フローリオが資金を出し、建築家・ジャンバティスタ・バジーレとエルネスト・バジーレの親子二代が完成した有名な劇場である。また近年は、「ゴッドファーザー」第3部の重要な舞台として使われたことでも有名である。
 第3部の終盤、主人公マイケルが敵対する勢力を一掃し、息子が主役を演ずるオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」を観終わった夜、劇場の正面階段を下りる途中で刺客に襲われ、最愛の娘が目の前で亡くなる場面がある。主人公が、幸福の絶頂から悲しみのどん底に突き落とされるという運命の残酷さを、「悲劇」の骨法正しく描き出した場面である。マイケルはこの衝撃から立ち直ることができず、やがて独り崩れるように亡くなる姿を映し、映画は終わる。
 劇場の正面階段は、思っていたよりも幅が狭い印象だった。

(つづく)

シチリアの旅 3 [旅行]

▼パレルモに行くなら、「ラグーザお玉」の絵を見てこようと考えていた。

 ラグーザお玉は日本名を清原玉といい、1961年(文久元年)江戸に生まれた。家は芝の増上寺の差配(管理人)だった。子どものころから絵を描くことを好み、師について日本画を学んだ。
 清原家は裕福で広い屋敷を持ち、屋敷内に築山や花園をつくっていたので、花の季節にはたくさんの人々が花を見に訪れた。
 1877年(明治10年)のある日、花を見に立ち寄ったひとりの外国人が、縁側で絵を描いている少女を見て、声をかけた。外国人の名はヴィンチェンツォ・ラグーザ、前年、日本政府の招聘で来日し、工芸美術学校で彫刻を教えていた。
 ヴィンチェンツォ・ラグーザは1841年、パレルモの郊外に貴族の料理人頭の息子として生まれた。子どものころから美術に非常な興味をもち、画家や彫刻家、装飾家のスタジオに出入りして独学で技術を学んだ。
 1860年にガリバルディが千人隊を率いてシチリアに上陸すると、彼は勇んでその軍に加わり、義勇兵として各地を転戦した。除隊したのちは、両親の反対を押し切り、彫刻を本格的に学び、ミラノで彫刻家として活動を開始する。そして1875年にイタリア政府が実施した彫刻部門のコンペで優勝し、日本に赴任することになったのである。

 ラグーザは玉に、頭の中のイメージで描くのではなく、実物を写生することを教えた。やがて玉は、ラグーザの「日本婦人像」のモデルも務めるようになり、1880年(明治13年)に結婚する。
 1882年(明治15年)、ラグーザは玉を連れてイタリアに戻り、パレルモに工芸美術学校を創設した。玉はパレルモ大学美術専攻科に入学して絵画の指導を受け、夜もイタリア語の習得に学校に通い、2年後には彼女も工芸美術学校の教授として教える立場になった。
 玉の絵はイタリア各地の美術展や博覧会などで入賞を重ね、女流画家として玉の名前は次第に高まる。絵の注文は彼女がパレルモに来た早々からあったが、画名が上がるにつれて増え、生活力のないラグーザの弟妹が一緒に暮らす大家族の家計を潤した。
 玉の画家としての評判が最も高かったのは1910年頃と見られ、この年ニューヨークで開催された美術展にイタリア女流画家と出品し、婦人の部の最高賞を受けるとともに、ヴェネツィア・ビエンナーレでも最高賞を獲得している。

 一方ラグーザは、ガリバルディの銅像制作コンペで首席となって制作者に指名され、精魂込めて騎馬像をつくった。ガリバルディが馬上で右手を挙げ、遥かかなたの空を指さし、「明日はパレルモだ」と叫んだ有名な瞬間をとらえた銅像の除幕式が、1892年に盛大に挙行された。

▼ヴィンチェンツォ・ラグーザは1927年、86歳で亡くなった。20歳若い玉もすでに60代後半となり、日本語もおぼつかなく、彼女はパレルモで暮らし続ける覚悟だった。

 昭和6年(1931年)、明治文化研究家の木村毅(きむら・き)が「実話小説・ラグーザお玉」を大阪毎日新聞と東京日日新聞に連載し、玉の名前は一挙に知られることになる。イタリア旅行中に玉のうわさを聞き込んだ木村が、大阪毎日のイタリア特派員にパレルモまで行って玉にインタビューするよう依頼し、取材原稿を元にまとめたのが上の「実話小説」だった。
 それがきっかけとなり、玉は昭和8年に帰国した。清原家を継いでいた玉の姉の子どもや孫が彼女の世話をし、玉は毎日画業に勤しみ、昭和14年に亡くなった。享年78歳。

▼ラグーザが制作に精魂込めたガリバルディ像を見ようと、海岸近くの「ガリバルディ庭園」に出かけた。しかしそれらしい騎馬像はなく、ガリバルディや「千人隊」の幹部らしき者の胸像がいくつかあるだけだった。その胸像も、誰の像であるかは記されているが、作者の名前はどれにも書かれていなかった。

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 日本に帰ってから、竹山博英『シチリアの春』(1994年)所収の騎馬像の写真をていねいに見ると、像の背景が「ガリバルディ庭園」とは少し異なるような気がした。銅像の除幕式が行われた「イギリス公園」は、現在の「ガリバルディ庭園」のことだと思い込んでいたのだが、どうも違うらしい。よく調べておくべきだった、と後悔した。

▼パレルモ市立近代美術館へラグーザと玉の作品を見に行った。玉の作品が1点、ラグーザの作品が2点展示されていた。
 玉の作品は「日本の景色 Paesaggio Giapponese」と題するもので、池のほとり、桜の花の下に着物姿の若い女が立っている絵だった。

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【作者名はEleonola Ragusa (Kyohara O’Tama) 、Eleonolaは玉のイタリアでの名前、1880年頃の作品とされる】

ラグーザの作品はテラコッタの「日本婦人像」と「車夫像」。

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(つづく)

シチリアの旅 2 [旅行]

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【シチリアは四国の1.4倍、九州の3分の2ほどの大きさの島である。】

▼シチリアの歴史は古い。
 紀元前7~8世紀ごろにはシチリア南部の沿岸などにギリシャ人が植民都市を建設し、北西部の沿岸に植民都市を築いたカルタゴ(現在のチュニジア)の勢力と争っていたという。今回の旅行で回るアグリジェントやシラクーザはかってのギリシャの植民都市であり、当時建てられた神殿や劇場の遺跡が残っている。
 やがてギリシャの諸都市は衰え、ローマが台頭した。ローマはカルタゴと争い、3回のポエニ戦争でカルタゴを壊滅させるとともに、シチリアをローマの属州に組み込んだ。
 シラクーザ生まれのアルキメデスは、彼が発明した投石器などを使ってシラクーザを攻めるローマ軍を悩ませたが、落城の際、敵兵に殺されたと伝えられている。
 シチリアのローマ帝国による支配は700年間続き、西ローマ帝国の滅んだ後はビザンツ帝国領となり、やがてアラブ人の支配する領土となる。アラブ人はシチリアを農業、商業の栄えるイスラム教国につくり変え、パレルモはイベリア半島のコルドバと並ぶ大都市に成長した。
 西欧・カトリックの文化とギリシャ・東方正教の文化、アラブ・イスラムの文化の鼎立する状態が、7世紀以降の地中海の歴史の基本的枠組みとなったが、シチリアはこの三つの文化圏につぎつぎに組み入れられることで、文化の融合する場所となった。

▼11世紀になると、ノルマンジーから傭兵としてシチリアに渡ってきたノルマン人の集団がしだいに力を蓄え、アラブ人に替わって王国を建てた。
 ノルマン人のシチリア王国はイスラム教徒に寛容であり、王国の専門的な役職は多くのアラブ人やギリシャ人の役人によって担われていた。「12世紀ルネサンス」と呼ばれる活発な文化活動が、この王朝の下で花開いた。
 いわゆる「ルネサンス」とは、14世紀にフィレンツェなどのイタリア中部の都市から始まった、古代の学術の復興と教会の精神支配に対する人間性主張の運動とされている。
 これに対して「12世紀ルネサンス」とは、ハスキンズという中世史家が1927年に出版した同名の書物の中で主張したもので、彼は西ヨーロッパの12世紀がけっして「暗黒時代」ではなく、文化活動が盛んに行われた時代だったことを明らかにした。
 アッバース朝の都・バグダッドでアラビア語に翻訳されたギリシャ語の哲学書や自然科学書が、今度はラテン語に翻訳されることによって、ヨーロッパ各地にもたらされた。その翻訳事業の拠点が、イスラム支配下のイベリア半島のトレドであり、ノルマン朝シチリア王国の首都パレルモだった。
 シチリアの宮廷は西ヨーロッパの知識人にとって、アラビア語、ギリシャ語の文献を研究する前線基地であり、写本や翻訳本を求めて多くの知識人がパレルモを訪れた。
(以上の記述の多くは、『中世シチリア王国』高山博 に拠る。)

 現在、パレルモの重要な観光資源となっている王宮のパラティーナ礼拝堂、カテドラーレ、マルトラーナ教会、サン・カタルド教会、サン・ジョバンニ・デリ・エレミティ教会などは、すべてノルマン朝時代の建設である。当時の文化と富の巨大な集積が、1千年後のパレルモの人々に職と食をもたらしているのである。
DSC01175.JPG【カテドラーレ(大聖堂)】
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【王宮 現在も3階の一部がシチリア州議会堂として使われている】
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【王宮の中庭】
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【王宮2階のパラティーナ礼拝堂 モザイクで天井に描かれたキリスト像が燦然と輝いていた】


▼ノルマン朝シチリア王国は、中世最初の近代人といわれるフレデリクス(フリードリッヒ)2世が1250年に亡くなったあと、ローマ教皇と組んだフランスのアンジュー伯に滅ぼされ、子孫は根絶やしにされた。
  《複数の文化の交差点としてのシチリア王国は、すでにフレデリクス2世の半ばで終わっていた。(中略)……イスラム教徒の灌漑技術や農業技術が支えていたシチリア島の多様で実り豊かな農業も失われることになった。地中海貿易における中継地としての役割は減少し、旺盛な商業活動も見られなくなる。》 パレルモは、《華やかな歴史の表舞台から姿を消し、政治的混迷と経済的衰退に特徴づけられる長くて暗い時代を迎える。》(引用は『中世シチリア王国』高山博 から)
DSC01194.JPG【サン・ジョバンニ・デリ・エレミティ教会】
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【サン・ジョバンニ・デリ・エレミティ教会の内部  オレンジが実り、細い柱のアーチが中庭を囲むところは、イスラム建築そのままである】

 パレルモに経済的、文化的な活気が戻るのは、イタリアが政治的に統一されたあとの、19世紀末から20世紀初めにかけてであった。

(つづく)

シチリアの旅 1 [旅行]

▼2月2日(月)から2月17日(火)まで、イタリアのシチリアを旅行した。イタリア旅行は4度目だが2月に行くのは初めてで、どの程度寒いのか暖かなのか、見当がつかなかった。
 シチリアは地中海に浮かぶ島だからさほど寒くはないだろうと考えて、コートは薄手のものにしたが、寒い時の用心にヒートテクの長袖シャツと股引、毛糸のマフラーとホッカイロをスーツケースに詰め込んだ。
 シチリアでは、パレルモ、アグリジェント、エンナ、カターニア、シラクーサ、ラグーザの6都市を回った。
 シチリアの2月の気温は天候に左右され、天候は一日のうちに猫の目のように変わった。曇り空が青空に変わり、やれ嬉しやと思っているうちに突然雨が降り出し、しばらくするとまた青空がのぞく、といった繰り返しが一日に何回もあった。
 晴れたアグリジェントの陽光は春そのものだったが、そこから移動したエンナでは雪が降った。持参したコートも股引も、マフラーもホッカイロも無駄にならず、大いに役立ち満足したのだが、イタリアの2月が観光のオフシーズンである理由が了解できた。

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▼最近まで、シチリアについて知るところは、ごくわずかだった。
 「マフィアの故郷」、「ラグーザお玉」、………それにシチリアを舞台にしたいくつかの映画―――「ゴッドファーザー」三部作、「山猫」、「カオス・シチリア物語」、「ニューシネマパラダイス」………。
 なぜ旅行先にそのような、ロクに知りもしない土地を選んだかといえば、妻がテレビで、アーモンドの花が桜のように咲いている風景を見たのがきっかけだった。旅行するのなら、ここに行きたい、と彼女は言った。
 筆者にはかって観た「カオス・シチリア物語」の、荒涼とした山々や荒野の風景に対する憧れがあった。その思いの一部は3年前にギリシャへ行き、同様の荒涼たる風景を見て満たされたのだが、シチリアに行きたいという思いは続いていた。
 調べてみるとアーモンドの花が咲くのは2月の初めであり、アグリジェントではアーモンドの花祭りを例年2月上旬に行っている、ということが分かった。
 テレビ番組で取り上げていたのは、アーヴォラというシラクーサの近くのアーモンド栽培の盛んな土地だったが、南の海に面しているアグリジェントは暖かいだろうから花は早く咲き、シラクーサ近郊はそれよりも遅くなるだろう、などと勝手に考え、旅程を組んだ。旅行期間と移動スケジュールは、自分たちの年齢を考えてこれまでよりも短く無理の少ないものにした。
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▼成田を14時過ぎのアリタリアの便で発ち、ローマで乗り換え、パレルモに現地時間22時に着いた。空港からバスで市内に向かい、タクシーに乗りついでホテルに着いたのは23時30分だった。
 同じ「エコノミークラス」でもアリタリアはことのほか座席が窮屈なことが、以前の利用でわかっていたので乗りたくなかったのだが、日本を発ったその日のうちにパレルモに到着する便は、他の航空会社には無いようだった。機内ではあまり眠れずにホテルに着き、ベッドに入ったが、浅い眠りのまま朝を迎えた。

 宿泊したホテルは、旧市街(チェントロ)の中心であるクアトロ・カンティのそばにある。歩き回るのに便利なことと、古い貴族の館(パラッツォ)を改修してホテルに使用しているという話から選び、予約しておいた。
 ヨーロッパ近代の集合住宅は、採光と換気のために必ず中庭を設けている。パラッツォも中庭を持ち、中庭空間を囲むように各階のいくつもの部屋が配置されている。「廊下」というものはなく、部屋と部屋は直接扉でつながる構造である。
 朝食をとるためにエレベータを3階で降りてから、いくつもの部屋を通り抜け、やっと「食堂」に充てられた部屋に到着した。このホテルでは3階の3部屋を「食堂」に充て、残りの部屋は通り抜けの空間として開放しているのである。
 なんとも贅沢な話だが、富の「浪費」が貴族の特質であり、存在理由だったとすれば、このホテルは正しい貴族の館の姿を伝えている。
DSC01268.JPGDSC01271-2 (1).JPGDSC01272.JPG
(つづく)

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