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鞆の浦・尾道・呉・広島の旅 2 [旅行]

▼翌日も晴天。ホテルをチェックアウトしたあと尾道駅の周辺を散歩し、駅の南側の呉港に行った。
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 手前には江田島や広島港などへ行くフェリーボートの桟橋があり、斜め前方には造船所のクレーンが林立するのが見える。左手は海上自衛隊の駐屯地らしく、小型の艦船が係留された岩壁の横の広場で、隊員たちが駆け足や整列する姿が遠くに見えた。
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 9時過ぎに「大和ミュージアム」に入る。正式名称は「呉市海事歴史科学館」だが、これほど展示内容の情報を伝えない名称も珍しい。
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 「大和」は「戦艦大和」のことであり、戦艦大和に関する資料の展示とこの戦艦を生み出した呉市の歴史の解説が、「大和ミュージアム」の展示の2本柱である。2005年4月に開館したというから、今年はちょうど10年目に当たり、入場者は1000万人をすでに突破したという。この日は月曜日なのに、入館者でなかなかの賑わいだった。
 展示室の入り口を入ると、太平洋戦争に関する簡単な解説をビデオで流していた。五百旗頭真(いおきべ・まこと)と半藤一利へのインタビューがその中に含まれており、「大和ミュージアム」の太平洋戦争への見方が、五百旗頭や半藤の歴史観に連なるものであることを示している。

 明治政府は海軍の施設として横須賀に鎮守府を設置したが、西日本にも鎮守府を設けるべきだという声が高まり、選ばれたのが当時の呉村だった。呉には海軍工廠もつくられ、呉の街は海軍とともに発展した。戦艦大和もこの呉海軍工廠で建造された。
 しかしそのため、太平洋戦争では米軍による徹底的な空襲の対象となり、街は廃墟と化した。現在呉の街を歩くと、道路は広く整然と整備されているのだが、これは空襲で壊滅したからこそ可能となったのだろう。
 館内には戦艦大和の10分の1の模型が展示されていた。全長263メートル、最大幅38.9メートルの史上最大の戦艦は、日本がワシントン海軍軍縮条約を破棄したのち、対米戦争の主力として建造された。竣工したのは昭和16年12月16日、つまり対米宣戦布告の8日後だったが、建造を秘密にするため、竣工式は関係者だけでひっそりと行われたらしい。
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▼呉港に停泊していた戦艦大和は昭和20年4月、片道の燃料だけを積んで沖縄に向け出発し、4月7日、米軍艦隊の爆撃機や潜水艦の猛攻を受け、屋久島の西方200㎞の地点で沈没した。乗員3332名中生存者は269名、竣工からわずか3年半だった。
 戦艦大和と同型の戦艦が「武蔵」の名前で造られたことは、吉村昭の『戦艦武蔵』に詳細に記述されている。こちらは三菱の長崎造船所で大和よりも5カ月ほど遅く起工され、昭和17年8月に竣工した。そして昭和19年10月、レイテ沖海戦で米軍の空爆により沈没、竣工からわずか2年2か月だった。
 太平洋戦争において艦隊同士の戦闘はほとんどなく、戦闘の主役となったのはそれまで補助兵力とされていた航空機や潜水艦だった。米艦の持たない口径46センチの巨大な砲を誇る大和と武蔵だったが、大艦巨砲主義の時代がすでに終わっていたことを、両戦艦の短い生涯が如実に語っている。

▼吉村昭の『戦艦武蔵』(単行本:昭和41年刊)について、一言記しておきたい。
 吉村は友人・泉三太郎(ロシア文学者)から、昭和39年に「武蔵」の建造日誌の写真コピーを譲られた。吉村はいろいろな迷いを持ちつつも資料を読み込み、関係者に取材し、「武蔵」の建造準備から起工、進水、艤装、竣工を経てレイテ沖の海戦で沈没するまでを、作品にまとめた。
 吉村昭は純文学の作家であり、この『戦艦武蔵』執筆中の昭和41年に小説「星への旅」で太宰治賞を受けたのだが、『戦艦武蔵』のあとは作風ががらりと変わった。綿密な取材と調査にもとづく「ノンフィクション」が、吉村の執筆する世界となった。
 『戦艦武蔵』を書いたことが吉村にとって大きな事件であったことは、吉村が取材経過を記した『戦艦武蔵ノート』(単行本:昭和45年刊)からも読み取れる。調査を進めながら、「とうてい自分には書けないという意識と、文学に対する私の考えからも、書くべきではないという気持が強かった」と吉村は振り返るが、それでも彼は自分を鼓舞し、疲労困憊の末に書きあげた。

 『戦艦武蔵』は、膨大な人力と資材を投入して造り上げた「海の城」が、想定した戦闘を行えぬまま1千名以上の人命とともに沈没するまでを、建造過程に重心を置いて描き切った「悲劇」である。徹底した事実調査と硬質な文体が、困難な主題の作品化を可能とした。
 また、「戦艦大和」については奇跡的に生還した海軍少尉・吉田満が、その最期の出港から戦闘、沈没までを、叙事詩ともいうべき『戦艦大和ノ最期』に書き残している。
 「大和」や「武蔵」に結晶した人間の営為は、これらの文学作品に描かれることで、はじめて記憶される形を持った。

(つづく)

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