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鞆の浦、尾道、呉、広島の旅 3 [旅行記]

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▼「大和ミュージアム」を2時間ほど見たあと、隣接する「海上自衛隊呉資料館」へ行った。こちらの愛称は「てつのくじら館」と言い、現役を引退した本物の潜水艦をドンと正面に飾り、資料館の目印にすると同時に内部を公開している。潜水艦はくじらに似ているといえば、そう見えないこともない。
 展示テーマの一つは、機雷の除去活動についてだった。太平洋戦争の末期、テニアン島を発進したB29は日本の艦船の航路を塞ぐために、太平洋、日本海、瀬戸内海に合わせて1万発以上の機雷をばら撒いたという。終戦後もそれらの機雷は残されたから、航路の安全のために機雷の除去、つまり「掃海」が欠かせず、海上自衛隊がその任務を担ってきた。
 機雷はいろいろな形で進化しており、船がぶつかる衝撃で爆発するもの以外に、音や電波、磁気などに感応して爆発するものがあり、またアンカーとワイヤーでつながれて水中にある種類もあれば、海底に沈んでいる種類のものもある。したがって掃海の方法も、機雷の種類によって使い分けることになるが、日本の掃海技術は多くの経験を積んできたこともあって、きわめて高いらしい。
 もうひとつの展示テーマは潜水艦だったが、こちらはたいした内容ではなかった。
 資料館の正面に飾ってある潜水艦の中に入って見た。乗組員に割りあてられる空間はごくわずかなもので、低い天井の下に3段ベッドがしつらえてあったが、上と下のベッドの間は60㎝も空いていなかった。だが全長70~80mの潜水艦に70~80名の乗組員が乗り込み、さらに極めて多くの機能が詰め込まれるのだから、居住性がワリを食うのも仕方がないことなのだろう。
 
▼太平洋戦争で日本海軍の潜水艦は、大した戦果も挙げられずに終わった。
 その原因は、海軍指導部が海上輸送の確保に関して関心が薄く、敵の海上交通路の破壊という分野に潜水艦を活用しなかったことにある、と言われる。
 ドイツの潜水艦Uボート(Unterseeboot)は攻撃目標を敵の輸送船団に置き、敵の通商破壊に成果を上げた。ドイツ潜水部隊の総指揮官デーニッツは、戦争の帰趨はアメリカとヨーロッパを結ぶ大西洋のシーレーンを破壊できるかどうかにかかっていると確信していたし、チャーチルは一切の部門を挙げて対Uボート戦に力を集中した。
 米国も日本の海上輸送路を破壊することに力を入れ、輸送船舶を沈めるために潜水艦を使い、日本の近海に機雷をばら撒いた。ところが日本の潜水艦は敵の海上交通路の破壊という目的には使われず、艦隊に随行して戦闘に参加することを目的に設計・建造されていたのである。
 米国の太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥は、次のように述べたという。
「古今の戦争史において、主要な武器が、その真の潜在威力を少しも把握理解されずに使用されたという稀有な例を求めるとすれば、それはまさに第二次大戦における日本の潜水艦の場合である。」(『日本海軍失敗の研究』鳥巣建之助 単行本1990年)

 それでも日本の潜水艦の、潜水艦ならではの活躍がなかったわけではない。大戦の初期、インド洋からアフリカ大陸の南を回り、大西洋を北上し、英国の哨戒機が監視する中をドイツ占領下のフランスの港に入り、ドイツから「電波探信儀」を受け取るという離れ業を演じた潜水艦もあった。(『深海の使者』吉村昭 単行本1976年)
 また、インド独立の運動家・スバス・チャンドラ・ボースを、亡命先のドイツから日本に招くことが計画された時も、潜水艦は活躍している。ボースはUボートに乗って密かにドイツを離れ、喜望峰の近くで日本の潜水艦に乗り換え、スマトラ沖の島まで運ばれた。ボースはそのあと海軍機で立川飛行場に飛び、「大東亜会議」(昭和18年11月)に「自由インド仮政府」の代表として出席した。

▼昼食に呉名物の「海自カレー」を食べてから、鉄道で広島へ行った。広島駅から路面電車に乗り、原爆ドームを見に行った。青空の下に多くの観光客が来ていて、原爆ドームの説明板を読んだり、カメラを向けたりしていた。
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 川に沿ってすこし歩き、橋を渡って平和記念公園に入り、それから平和記念資料館を見学した。原爆投下後の広島の街の写真や被災者の写真が何枚も掲げられ、また熱によってひん曲がった金具や熱風でボロボロになった衣服などが展示されていた。明るい緑色のジャンパーを着た「ボランティア」の人たちが、見学者に説明役を買って出ていた。
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 平和記念資料館で展示を見ながら、呉の「大和ミュージアム」で流していた太平洋戦争の解説ビデオの中の、半藤一利の言葉について考えた。そのビデオの中で半藤は、インタビューアーから「戦争を語り継ぐ」ことについて話しを向けられ、「………語り継ぐというと妙に英雄的になったりして………」と口ごもり、「それよりも若い人たちに、積極的に受け継いでもらいたい、歴史を勉強してもらいたい………」と語っていた。
 半藤の言った「妙に英雄的になったりして………」の意味は、必ずしも明瞭ではないが、「体験を語ることはそれほど容易なことではない」という意味なら、よく分かる。そして歴史の記憶の伝承は、伝える側ではなく受け取る側の力に懸っている、という趣旨の発言は、問題の要点を突いていると思う。
 「戦争を語り継ぐ」などと気楽に言う向きもあるが、聞く側が熱意をこめて問うことで、体験者も語ることができるのであり、その逆ではない。その体験を聞きたい、その経験を知りたいと欲する若い人々がいて初めて体験者は口を開き、経験は学ばれ、受け継がれるのだ。
 半藤一利(1930年生まれ)は、昭和30年代に「週刊文春」の記者として多くの旧軍人たちの話を聞いて回り、記事を書いた。
 秦郁彦(1932年生まれ)は学生時代から戦争の記録や体験記を読みまくり、旧軍人たちのもとを話を聞きに訪れている。
 「大和ミュージアム」の館長・戸高一成(1948年生まれ)が語るところでは、戸高が大学卒業後に勤務した㈶史料調査会は、会長も上司も連合艦隊参謀という経歴の持ち主で、旧海軍士官のサロンのような職場だった。「毎日の昼食は太平洋戦史の講義のよう」であり、旧軍人や兵士たち数百人の話を聞く機会を得たことは、貴重な体験だったと彼は振り返っている。
 半藤や秦や戸高が話を聞いた旧軍人たちはすでに世を去り、体験を聞き出した半藤や秦の世代も80歳代半ばになろうとしている。しかし幸いなことに、われわれは彼らが記録し、整理し、考察した歴史の記述を持っている。謙虚に学ぶ意欲のある者に歴史は十分開かれているのであり、イデオロギッシュな日本罪悪論にも惑わされず、「東京裁判史観」を批判すると称するイデオロギーにも誤魔化されない力を、それらは与えてくれる。

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