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松永安左エ門 [旅行]

▼十日ほど前、箱根に行った。年に一度、箱根の定宿で囲碁を楽しむ集まりを仲間と続けているが、だいたい年末のこの季節になる。昨年は少し遅かったので、紅葉は終わりに近く、裸の樹々も見られたのだが、今年はちょうど見ごろで、快晴の青空の下、紅や黄や緑の葉が陽光に映えて美しかった。
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 小涌谷の駅からひと気のない道を、紅葉を眺めながら坂道をぶらぶら登る。風もなく、陽光に照らされている場所は温かだが、日陰に入ると途端に寒さが身体にしみこんでくる。
 筆者の囲碁の成績は、残念ながら今年は振るわなかった。しかしのんびり湯につかる時間は、なにものにも代えがたい。
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[宿の裏手の紅葉]
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[宿の前の原] 

▼翌日も穏やかな晴天。帰途、箱根登山鉄道を箱根板橋駅で途中下車し、松永安左エ門が晩年を過ごした屋敷を見に行った。辻井喬の大平正芳を描いた小説『茜色の空』を読んでいたら、そこに名前が出てきて、そういえば松永の屋敷が小田原市の記念館になっていると、人から聞いたことを思い出したのである。
 松永安左エ門(明治8年~昭和46年)は戦前、電力事業にたずさわり、戦後は戦中の統制経済下につくられた特殊法人「日本発送電」を分割民営化し、九電力体制を創りあげる上で力のあった実業家である。60歳になるころ(昭和10年ごろ)から茶道を本格的に嗜むようになり、論語の「六十にして耳従う」から採って「耳庵」と号した。
 所沢に柳瀬山荘を建て、熱海や伊豆の堂が島にも茶室をつくり、ここに茶事を嗜む財界人などを呼んで茶会を催した。
 松永記念館でもらった「略年譜」には、昭和10年は12回以上の茶会、11年は28回以上、12年は38回以上、14年は12回以上、15年は26回以上、17年は8月までに32回以上の茶事あり、と書かれている。

 松永安左エ門は戦後、所沢の柳瀬山荘と収集した古美術品を東京国立美術館に寄贈し、小田原市に「老欅荘」を建てて転居した。別荘名は、敷地の一角に立つ樹齢400年の欅(けやき)の樹にちなんで付けられたものである。以後、松永はここで過ごし、昭和46年に96歳で亡くなった。
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 「老欅荘」の建物自体は、なんの変哲もない木造平屋の建築である。茶室らしき部屋が二つあった。いくらか高台の土地に建てられているので、以前は座敷から小田原の海が遠くに眺められたというが、今は見えない。傾斜のある庭の小路は歩きやすいものではなく、九十を超えた老人には危険だったのではないか、と思った。
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▼「略年譜」によれば、松永が茶会に招いた財界人には、益田孝(鈍翁)、根津嘉一郎(青山)、原富太郎、(三渓)、小林一三(逸翁)、高橋義雄(箒庵)、野崎広太(幻庵)、藤原銀次郎(暁雲)などの名前がある。
 益田孝は三井物産の設立に関わり、三井財閥の大幹部だった男だが、この小田原に別荘を構えた草分けでもある。「掃雲台」と名づけた別荘を明治の末から造りはじめ、大正の初めに三井を退くとともに、ここに移り住んだ。松永より30歳近く年長で、茶の道における大先達であり、昭和13年に亡くなった。
 根津嘉一郎は、東武鉄道をはじめ広く鉄道事業を手掛けた実業家であり、原富太郎は、富岡製糸場など製糸業を発展させた横浜の実業家、小林一三は阪急・東宝グループの創設者、高橋義雄、野崎広太は三越の社長などを務め、藤原銀次郎は王子製紙を経営した事業家である。
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 茶会はお互いに招き招かれるものだから、松永も彼らの茶会に呼ばれれば、出かけたのだろう。かなりの頻度、かなり親密な交わりといってよい。
 茶会に出るということは、財界の有力者との親睦や情報交換という、実利的な意味もあったかもしれない。しかし茶事自体に大きな魅力がなければ、温泉もなく酒も出ない席に、彼らがはるばる出かけることはなかったであろう。一服の茶を味わい茶器をめでる茶事が、多くの財界人をそれほど魅了したという事実は、現在では人びとの理解を超えているのではないだろうか。
 現代人が多忙で無教養になったのか、昭和前期の財界人は教養があり、風流をめでる心の余裕があったのか、わからない。筆者も彼らの頻繁な茶会を知るにつけ、不思議な気持ちが増してくる。

▼松永の「老欅荘」のすぐ近くに、山縣有朋の別荘だったという「古希庵」があり、明治時代の政商・大倉喜八郎の別荘「山月」もあった。しかし「古希庵」は現在、茅葺の門構えと庭園の一部を残すのみで、敷地には損保会社の研修施設が建っている。「山月」は、堂々とした門柱が残っているが、ロープが張られ、敷地内立ち入り禁止となっていた。
 益田鈍翁の「掃雲台」はすっかり姿を消し、何の痕跡も残っていないらしい。

 松永安左エ門は昭和29年、80歳のときに欧米視察旅行へ出かけた。82日間の長旅だった。英国では、アーノルド・トインビーに会った。親交のあった鈴木大拙から『歴史の研究』を教えられ、その要約版を読んで感銘を受けたからだった。トインビーと歓談し、翻訳権を得て、『歴史の研究』の翻訳が松永最晩年のライフワークとなった。
 翌々年松永は、来日したトインビーを老欅荘に招き、茶事を行った。小泉信三や谷川徹三が陪席したという。


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