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ハワイ旅行 2 [旅行記]

▼飲茶の店で昼食をとり、ワイキキへ戻ることにした。筆者は途中でバスを降り、一人でマキキ教会を見に行った。
 曇り空からときどき細かな霧状の雨が降った。傘を開く間もなくすぐに上がり、日が差しはじめるのだが、またすぐに霧状の雨にもどり、これが何度も繰り返される。土地の人間はこれを「シャワー」と呼び、天候の良い7、8月でもよくあるのだという。
 マキキ教会を建てた奥村多喜衛牧師は19世紀末にハワイに渡り、半世紀以上のあいだ日系人の社会的精神的指導者として活動した人物である。(奥村多喜衛については昨年ブログに書いたので、以下を参照。)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yyosino917/biblio-okumura.html#okumura

 奥村が故郷の高知城を参考にして建てた「聖城マキキ教会」は、すぐにわかった。入口が閉まり、人けがなかったので、「シャワー」を避けながら写真を撮り、引き上げることにした。

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【教会に城の建築はふさわしくないという批判に対し、奥村牧師は聖書・詩篇の「神はわが避難所、敵から守る堅固なやぐら」という言葉を示し、反論したという】
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【マキキ教会と道路を挟んでマッキンレー高校がある。その敷地内のアメリカねむの木】

 夕方、海辺の高級ホテルのバーで旅行参加者が顔を合わせた。浜辺で打ち上げられる花火を見た後、場所を変えて食事。ビーフ・ステーキを食べるが、可もなく不可もなくといったところか。
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【高級ホテルのプールサイドから日没時の海を眺める】
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【ミス・ハワイのコンテストが終ったあとか?バーへ向かって歩いていると美女たちが現れたので撮らせてもらった】

▼三日目はパール・ハーバーへ行くことを予定していた。朝の時間を節約するために、ホテルの下に入っている食堂で朝食。クリームとイチゴが乗ったパン・ケーキを頼んだが、ふわふわしていてとても不味い。どのガイドブックにもパン・ケーキは、ハワイの名物のようにでかでかと写真入りで紹介されているのだが、どうしたものか。
 A夫妻はO君の車で半日ドライブに出かけ、筆者はY君と二人でバスに乗った。しかし途中で財布を忘れてきたことに気づいた。
 前の晩、ズボンの尻ポケットから出したような記憶があるが、それからベッドサイドのテーブルの上に置いたのか、部屋の金庫に入れたのか、まるで覚えがない。ドル札はポケットに持っているので今日の行動に支障はないが、心配を抱えながら半日を過ごすのも気持ちの良いものではない。今ならまだ、室内の掃除は取り掛かっていないだろう。そう考えて、引き返すことにした。
 Y君と別れ、部屋に戻ったが、財布はテーブルの上にも金庫の中にもなかった。探し回った末に、洗面用具を入れている小さなバッグを覗くと、なぜかその中にあった。年寄りの物忘れと突飛な行動には、我ながら苦笑するしかなかった。

▼結局筆者は、予定より1時間半遅れてパール・ハーバーに着いた。ここにはアリゾナ記念館や戦艦ミズーリ記念館、潜水艦や航空機の博物館などがあり、一帯が公園のようになっている。
 アリゾナ記念館は、1941年12月7日早朝の日本海軍の攻撃とその後の戦闘で亡くなった人びと2400人を追悼する施設である。戦艦アリゾナはその時沈没したアメリカ戦艦のうちの1隻であるが、今もなお乗組員1200人の遺体を残したまま真珠湾の海底に沈み、記念館はその船体の真上に建てられている。
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【白い記念館の真下、水面下2.5メートルのところに戦艦アリゾナが沈んでいる】

 見学は、数十人ずつ見学者が集まったところで、まず当時の国際政治や日本軍の攻撃の様子を説明する20分ほどの映画を見せ、そのあと海軍のシャトルボートに乗せて記念館まで運ぶ。記念館の中に見学者を入れることもあるようだが、われわれの回は周囲を回っただけで桟橋に戻った。
 戦争へ至る歴史とハワイでの戦闘をもの語る資料館を、ゆっくりと見て回った。真珠湾攻撃がどのように行われ、それに対し米軍側がどのように行動し、あるいは行動できなかったか、事実を客観的に述べるというスタイルで一貫しているように見えた。
 「真珠湾攻撃」と一言で言われるが、日本海軍の攻撃はハワイにある6か所の飛行場に対しても行われ、それらの総称として「真珠湾」が使われていることを、筆者は初めて知った。
また、山本五十六の主導した航空機主体の攻撃戦術が、それまでの戦艦主体の海戦の常識を一変させたとも述べられていた。
 真珠湾攻撃によりアメリカの太平洋艦隊は壊滅的打撃を受けたが、日本軍の損失は潜水艦と飛行機併せて65人の戦死者を出しただけだったこと、しかし米海軍は6カ月後のミッドウエーの海戦に勝利し、戦争の帰趨を決定したことなどが、淡々と説明されていた。
 「卑怯な不意打ち」などという言葉はなく、日本の爆撃機の「大胆な攻撃 bold attack」、山本五十六の「大胆不敵な冒険 daring gamble」といった、敵を称賛するかのような表現が使われていることが、印象に残った。
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【戦死者の名前が刻まれている】

▼スタートが遅れたために、すでに12時をかなり回っていた。戦艦ミズーリ記念館にも行く予定だったが、それは取りやめワイキキに戻った。高級ホテルの浜辺のビーチ・バーでビールを飲み、遅い昼食をとった。

 あとで顔を合わせたY君の話では、彼はアリゾナ記念館には行かず、戦艦ミズーリ記念館と航空機博物館に行ったのだという。
 ミズーリ号の名は、筆者は降伏文書の調印が行われた場所として知っているだけだったが、戦艦として沖縄海戦に出撃しており、特攻機の攻撃を受けている。特攻機のほとんどは敵艦に到達する前に撃ち落されたが、一機だけ体当たりに成功したものがあった。ミズーリの指揮官は戦闘終了後、その飛行士を礼をもって弔うよう指示し、四散した遺体を縫い合わさせ、水葬にしたという。
 ミズーリ記念館にはその飛行士の写真も展示してあった、とY君は感銘を受けたという面持ちで言った。

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【ワイキキビーチ。10月末でも日光浴や海水浴の人出は結構ある】
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【ワイキキビーチ】

▼夕方、旅行参加者全員が集合する夕食会を、米軍専用といわれるホテルのビーチ・バーで持った。ハワイ在住のO君が手配してくれたのである。全員で13名、中に4組の夫婦があり、初めての顔と久しぶりの顔が入り混じり、会は和やかに盛り上がった。しかし生憎の「シャワー」に見舞われたので、会場を別の場所に移して食事をとった。

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【ムードたっぷりなビーチ・バーだったが、あいにくのシャワーで退散】

 夕食会終了後、O君夫妻が自宅に呼んでくれたので、全員喜んでお邪魔することにした。アラワイ運河の近くの彼の家まで、徒歩で幾らもかからなかった。
 高層マンションからの夜景は、素晴らしかった。窓を開けておくと気持ちの良い風が通り、エアコンはあるが夏も冬も使ったことがない、とO君は言った。彼はすでに米国籍を持ち、日本国籍も持っているらしい。「レンホウさんと一緒」と、日本の最近のニュースにも明るいところを見せた。

(つづく)

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