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台湾旅行 7 [旅行記]

▼話が「台湾旅行」からかなり逸れたので、そろそろ終わりにしようと思う。



 台湾旅行から帰り、李登輝『台湾の主張』(1999年)、小谷豪冶郎『蒋経国伝』(1990年)、司馬遼太郎『台湾紀行』(1994年)、金美齢『私は、なぜ日本国民となったのか』(2010年)を読んだ。それらのいずれもが、期せずして「国家」や「政治」を考えさせるものだったのは、主題としての「台湾」の経てきた厳しい歴史によるものだろう。



 1970年代初頭の台湾は、国際的孤立を深めていた。国連の中国代表権問題で北京政府に敗れ、国連からの脱退(1971年)を余儀なくされ、米国はニクソン大統領が中国を電撃的に訪問(1972年)して北京政府を事実上承認し、日本は日中共同声明を発表(1972年)して、台湾政府と断交した。
 台湾海峡の向こうには、軍事的威嚇をためらわない強権的政権があり、国内には独裁体制の敷いた戒厳令のもと、無力な国民がいた。
 1972年に首相ポストに就いた蒋経国は、台湾政治の枢要ポストに「被支配者」である「本省人」を多数配置するという破天荒な人事を行い、また若手を抜擢して大規模な経済建設事業に取り組んだ。60年代の台湾も経済的には順調に発展していたが、蒋経国が73年から開始した港湾や鉄道、南北高速道路、桃園国際飛行場などの「十大建設事業」の成功は、台湾を先進国に押し上げた。
 蒋経国はこれらの過程で確固としたリーダーシップを発揮し、国際的孤立化で動揺する人心を鎮め、掌握することに成功した。



 国際的孤立と国内的対立の危機に直面した独裁政権が、強権的手法をいっそう強めることで乗り切ろうとする例は、歴史上数多く見ることができる。朝鮮半島の北半分を占拠する独裁政権が選択した道もその例であり、国を閉じ、独裁者への思想的忠誠を強制し、国民の不満を恐怖政治で抑え込むことで政権の存続を図った。
 台湾の政権も同じ危機的状況にある分裂国家として、同様の政治的選択をしても不思議でない条件下にあった。しかし指導者は国を開き、国民が生き生きと働くことで経済が発展し、政治活動を徐々に自由化することで国内の対立を解消する道を選んだ。
 台湾と北朝鮮の二つの独裁政権の置かれた条件や環境の違いはいろいろあるだろうが、もっとも大きな違いは国家指導者の意思と能力であり、その違いが二つの国民の運命を大きく分けた。

▼蒋経国について少し調べてみようと思ったのは、現在の豊かで民主的な台湾社会を創りだすうえで、その優れた指導力が不可欠だったと知ったからだが、また彼が若い時に「革命」を学ぶためにソ連に渡り、辛酸をなめた人間だと知ったからである。李登輝は次のように書いている。



 《蒋経国は、父親の蒋介石総統と宋美齢との結婚後、ソ連に奔って共産主義を学ぼうとした。(中略)革命を学びに行った蒋経国は、期待とは裏腹に、共産主義ソ連で非常に苦労することになった。シベリアに抑留されて、思想的にも精神的にも非常な圧迫を受けた。この体験が、蒋経国と父親の蒋介石との大きな違いとなっていると思う。》



 蒋経国は1925年16歳の時に、他の留学生とともに上海から船に乗り、ウラジオストック経由でモスクワに行った。モスクワの大学で2年間学び、他の留学生仲間は次々と帰国していったが、彼は帰国を許可されず、赤軍に入る。ソ連政府は彼を中央軍事研究学院に入学させた。
 1930年に学院を卒業し、再度帰国願いを申請したが許されず、その後、モスクワ郊外の電気工場や農村で労働者として働き、病気で倒れる。病気回復後はウラル地方の金鉱掘りに送られ、そこの工場の女子工員と結婚した。
 1936年12月に「西安事件」が発生し、中国国民党軍は共産党軍との内戦を停止し、抗日民族統一戦線が結成される状況となり、ソ連政府は蒋経国の帰国を許可した。彼は妻子とともに翌年3月、12年ぶりの帰国を果たす。
 帰国後の蒋経国は国民党の青年教育に関わり、また県長として地方の行政にたずさわり、蒋介石の欠かせぬ部下として多方面に活躍を開始する。

▼蒋経国が、1949年から1951年にかけて台湾全土で猛威を振るった「白色テロ」に責任がないわけではない。というよりも、1950年に台湾政府の情報と治安の責任者の地位に就いた彼は、白色テロの責任をまさに負うべき立場にある。
 しかし台湾を政治的危機から救い、経済の建設事業に取り組み、政治の民主化、自由化を進めたのも彼だった。副総統に李登輝を就け、自分の亡きあとに政治の民主化、自由化がいっそう進展するような態勢を創りだしたのも、蒋経国だった。
 台湾の戦後の歴史を知ることで、すぐれた政治指導者の存在により国家と社会が大きく変化する姿を見ることができる。それは過酷な政治とは無縁だった戦後の日本人の思考から、すっぽり落ちてしまった盲点を照らしだす。

 
 李登輝は司馬遼太郎との対談で、蒋経国が自分を後継者にしたかったかどうかは「はっきりしない」と言っている。(司馬遼太郎『台湾紀行』1994年)
 「あの政治状況の中で、もし蒋経国さんがおくびにでも出せば、おそらく私はたたきつぶされていたかもしれない。私だって、だれを次の総統にするかなどということはいわない。私が選挙にでるかどうかも言わない。蒋経国さんも、そういう考慮をしていたと思います。」



(終)


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