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台湾旅行 6 [旅行記]

▼李登輝の「政治」について、話を続ける。
 
 台湾における国民党の独裁的な権力体制を改め、民主的な政治体制を創りだすためには、1949年に施行した戒厳令を解除するとともに、憲法を凍結し総統に独裁権を許している1948年施行の「動員戡乱(かんらん)時期臨時条款」を廃止する必要があった。
 戒厳令の解除は、蒋経国のもとで1987年に行われた。しかし「臨時条款」の廃止は、手続き的にはるかに困難な課題だった。なぜなら「臨時条款」は40年前に国民大会で決定されたのだが、その国民大会の構成員がその後改選されずに万年議員として存続していたからである。
 「臨時条款」を廃止すれば、万年議員たちはその地位を降りなければならない。彼らに「臨時条款」の廃止を求めることは、《「あなた方の墓穴を掘ってください」と頼むことに等しかった。》《どう考えても説得するのは不可能なことだった。しかし、その不可能なことを実現しなければ、台湾は独裁制からは抜け出せないのである。》



 《私は国民大会の代表の人たちを一人ひとり訪問して、「リタイアしてください。ついては退職金を出します。」「国家のために、一つ考慮してください。情勢はここまできているのです」とお願いして歩いた。六百人以上の代表に直接出向いてお願いした。》(『台湾の主張』李登輝 1999年)



 当時、総統は国民大会で選出する決まりになっていたから、李登輝は自分を選んでくれた議員にむかって、「墓穴を掘る」ように頼んで回ったわけである。その努力は功を奏し、1991年に国民大会で憲法改正案が通り、「臨時条款」は廃止された。
 総統を国民の直接選挙で選ぶことが可能となり、李登輝は1996年に国民の選挙で選ばれた最初の総統となった。

▼台湾政治の特殊事情の説明に、いささか紙面を割きすぎたかもしれない。しかし李登輝の発言と行動を追っていけば、台湾の政治の民主化がけっして幸運な偶然や思いつきに由るのではなく、緻密な思考と用意周到な準備、そして忍耐強い地道な活動を通してもたらされたものであることが分かる。



 李登輝は、政治家に必要なのは「大きく太く」ものごとを押さえる信念に裏打ちされた力を持つことだと言う。そして「政治」とは彼にとって、さまざまな課題の重要性を正しく見極め、実行に当たっては忍耐強く時間をかけて人びとの理解を得るように努めることであった。
 李登輝は「政治」を蒋経国から学んだと書いている。
 彼は国務大臣として、重要な会議ではいつも積極的に政策を提案するようにしていたが、蒋経国は会議の議長として彼の提案を聞きながら、やがて自分の結論に持っていくために話し始める。李登輝は自分の提案と蒋経国の出した結論の差を考えることによって、政治というものを学んだ。なぜ蒋経国がそのような結論を出したのか、自分の提案に何が欠けていたのかが理解できた。



 《私は蒋経国のもとで六年間国務大臣を務めた。蒋経国が議長の会議は緊張の連続だったが、同時に私の「政治の学校」でもあった。もし、私が理論家だけではなく政治家として成長したとするなら、「蒋経国学校」の六年間がものをいっていると思う。》(同上)

▼李登輝はで日本について次のように語っている。

 
 《台湾が日本の植民地だったということに、きわめて神経質になっている日本人も多い。他国を植民地として経営するという行為は得策でもないし、国際道義的にも誉められたことでないのは確かである。しかし、そのことばかりに拘泥しても日本の将来に益することは少なく、また台湾にとってありがたいことではない。
 中国大陸は、戦争中の日本の行為について、これからもことあるたびに問題化するだろう。それは、大陸の戦略で、投資を含めた日本からの援助を引き出す目的があるからだ。しかも、日本は歴史認識がからんだ問題になると、中国大陸にわざわざ伺いを立て、その結果、なんらかの交換条件が引き出されてしまうのである。》(『台湾の主張』1999年)



 《戦前の日本は、もちろん多くの問題はあったが、それなりに日本の主張というものを行ってきた。極東でいち早く西欧列強に対峙したという誇りもあった。ところが、戦前・戦中の失敗を経て、戦後になると、対外姿勢に過度の弱さがつきまとうようになってしまった。
 ことに中国大陸にたいしては、あまりにも遠慮が過ぎるようになっている。なんでも「イエス」で受け入れる。》(同上)



 この『台湾の主張』は、李登輝がまだ現役の総統職にあった時に書かれ発表されたものであるから、その点を頭において読む必要があるかもしれない。しかし彼が日本に対して語る率直な「忠告」は、異例ではあるが、親しい間柄だからこそ示された好意的な批判として受け止めるべきものと思う。
 李登輝は日本外交が中国政府に対して示す過度の「遠慮」の具体例を挙げているが、ここでは別の事実を彼の発言の傍証として、一つだけ挙げておこう。



 李登輝は2000年の総統選挙で立候補せず総統職を降り、国民党主席の座も退き、2001年に「心臓病治療」のために来日を希望した。しかし中国政府は、「李登輝氏は引退後も一つの中国、一つの台湾の運動を陰で操っている。私人ではない」という理屈で反対し、それが公けになるという「事件」があった。
 中国政府が反対すること自体は、べつに不思議ではない。問題は日本側の対応であり、内閣官房も外務省も自民党内も訪日推進派と反対派に分かれ、対立が鮮明に顕れた。結局、当時の森総理が「人道的配慮からビザを発給する」ことを決定し、「事件」は終わった。
 元外務次官の村田良平は、訪日に反対した外務官僚と政治家の実名を挙げて批判しているが(『なぜ外務省はダメになったか』2002年)、「事件」は李登輝の上の発言が事実であることをまざまざと示したといえるだろう。
 そして政治家やマスコミの謳う「日中友好」が、どのような日本側の「努力」によって維持されている関係であるか、その情けない実態を世間に知らしめた事件でもあった。



(つづく)


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