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長崎の旅 [旅行記]

▼長崎に2泊3日の旅行をした。筆者は友人たちと、1年に一度日本各地を旅する会をつくっていて、今年は旅先が長崎だったのである。会のメンバーは全国に散らばっており、旅行地を決めて現地で顔を合わせ、また各地へ戻っていく。
 会がつくられたのは25年以上前である。つくられた当時はメンバーは皆現役の働き手だったが、いまでは大半が年金生活者となり、亡くなった者も何人かいる。
 旅行に細君同伴で参加する者も多くなった。今年の参加者は13人だったが、そのうち10人はカップルで、単独参加はわずか3人に過ぎなかった。

 土曜日の午後、メンバーは長崎新地のホテルに集合し、長崎観光の定番であるオランダ坂をのぼり、グラバー園へ行った。長崎の外国人居留地にある坂道はどれも「オランダ坂」と呼ばれたのだそうだが、幕末の開港後、長崎を訪れた異国の民は、港を見下ろす丘の上に屋敷を構えたのである。
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【オランダ坂: 長崎は坂の街である。足腰が強くないと暮らすのは大変そうだ。坂の多い街の構造は、昨年訪れた尾道とも共通している】

 そうして建てられた洋館が、現在もオランダ坂や丘陵地の道路沿いに残り、グラバー園にもトーマス・グラバーの家をはじめ、由緒ある洋館が集められ、復元されている。
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 グラバー園を出てから大浦天主堂を見て、ホテルに帰った。
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 夜は思案橋の台湾料理の店で宴会。周辺は市内で一番賑やかな場所だという話だが、人の出はたしかに多かった。

▼翌日は「軍艦島」クルージングに参加した。長崎港の沖合19kmの端島(はしま)が「戦艦土佐」の形に似ているということでこう呼ばれたのだが、もともとはただの岩礁だったという。19世紀の初めに石炭が露出していることが発見され、明治時代に三菱が買い取り、本格的に炭鉱事業に乗り出してから人が移り住むようになり、島は拡張された。掘り出された石炭は福岡県の製鉄所に送られ、日本の近代化を支えた。
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【戦艦土佐はワシントン海軍軍縮条約により、実戦配備に就くことなく沈められることになった。
「長崎ぶらぶら節」という映画を見ていたら、吉永小百合扮する芸者・愛八が、沈められる土佐が可哀想だ、と客の軍人に訴える場面があった。】

 戦後の最盛期(1960年)に島の人口は5千人を超え、社宅や病院、小中学校からパチンコ屋、映画館、スナック・バーの類まであり、たいへんな人口密度だったというが、1974年に閉山。住民は離散し、島は無人の廃墟となった。
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 この日は晴れて、波穏やか、風もない。島に上陸できるのは風速5メートル以内、波の高さ0.5m以内ということに決められているようだが、この日はまったく問題ない。
 船客は3グループに分けられ、ガイドに引率されて説明を聞いた。
 気温30度、湿度95%の地底で石炭を掘る炭坑夫には、三つの風呂が用意されていたという。第一は海水の風呂で、炭坑夫は作業着のまま飛び込み、衣服や身体に付いた粉塵を落とす。第二の風呂も海水で、ここで身体を洗う。第三の風呂は真水で、炭坑夫たちはここで塩気を落とす―――。
 真水はそれほど貴重だったのだ。はじめは船で飲み水を運び、その後6.5kmの送水管を敷設して対岸の半島から送り込んだ。
 電気は、初めは自家発電でまかない、やがて近くの高島炭鉱から送電するようになったという。
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(つづく)
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