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「南京事件」を考える 5 [歴史]

▼ジョン・ラーベの日記(『南京の真実』)から、南京城を占領した日本軍の行状に触れた部分に絞って、いくつか抜き出してみよう。
 以下は、南京陥落の日(12月13日)から松井石根司令官の入城式(12月17日)の翌日までの記述である。

12月13日 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。
………本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。われわれに武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。………
 日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手あたりしだい盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングも襲われた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。………
 元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。機関銃の音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。………

12月15日 朝の十時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。/十一時には日本大使館官補の福田篤泰氏。作業計画についての詳しい話し合い。電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。このへん、氏はよく承知している。この問題に関しては我々、もしくは私が役に立てるだろう。/昨日12月14日、司令官と連絡が取れなかったので武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。
 「南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃を受けております。………我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。/捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。」

12月16日 いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で掠奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区の中にもおよんできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空家という空家はことごとくこじ開けられ荒らされた。………/たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、五十人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。/下関(シャーカン)へ行く道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼き払われていた。挹江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字どおり死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。

12月17日 二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出て行くと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。/塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。この中の一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。………アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。「安全区は日本兵用の売春宿になった。」当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。

12月18日 最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやをおさめた。/中国人が1人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!………/危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入り込んでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、難民の少女におそいかかっていた。私はこいつをただちにつまみ出した。もう一人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。………

▼上に抜き出したものは実際の記述の6分の1程度にすぎないが、大体の様子はわかる。
 日本軍による中国軍捕虜の銃殺が市内のあちこちで行われたこと、兵士たちの無秩序な掠奪、強姦、殺人が横行していたこと、それでも「ヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いて」いて、国際委員会のメンバーが無法の現場で制止すると日本兵はこそこそ逃げ出したこと、とくにラーベの「ナチ党の腕章」は効果があったこと、などが記されている。
 このラーベ日記の「証言」は、前回示した田中正明の本に登場した旧軍人の「証言」と、真っ向から衝突する。東京裁判に宣誓口供書を提出した脇坂部隊長は口供書の中で、「当時南京における日本憲兵の取締りは厳重をきはめ、如何に微細な犯罪も容赦しませんでした」と述べているし、畝本正己・独立軽装甲車小隊長は「軍全体は健全で、軍紀厳正な精鋭軍であった」と主張しているからである。
 しかしこの証言の「矛盾」は、容易に解くことができる。ラーベ日記が当事者の行動と見聞を時間を置かずに記録したものであるのに対し、元軍人たちの証言は事件の10年後、あるいは50年近く経ってからの「意見」に過ぎない。ラーベ日記は他の国際委員会メンバーの残している記録などと突き合わせることで、資料としての価値を確認することができるのに対し、元軍人たちの「意見」は「個人的な思い」以上の価値を持つものではない。

 秦郁彦は『南京事件』(昭和61年)で次のように言う。 《軍紀取締りに当るべき憲兵の数が不相応に少なかった。……南京占領直後に城内で活動していた正規の憲兵は、両軍合わせても30名を越えなかったと思われる。その不足を補うために一般兵から臨時の補助憲兵を集める予定にしていたが、実際の配置は1週間近くおくれた。これでは効果的な取り締まりを期待するのは困難というより、不可能に近かったであろう。》
 また笠原十九司は上海派遣軍の「質」について、『南京難民区の百日』(1995年)で次のように書いている。 《上海派遣軍は当初、軍部・政府に不拡大方針の意図があったため、一時的な派遣軍とされ、……現役の兵役を修了した予備役兵と5年4カ月の同役を修了した後備役兵の兵隊が多く派遣された。したがって兵士としては比較的高齢であり、多くが結婚して家庭をもっていた。……そうした彼らが上海戦終了後、所期の作戦目標が達成されたとして、妻子の待つ日本への帰還を待ち望んだのは当然であろう。しかし、南京攻略戦の開始は、彼らの期待を無惨にも打ち砕いた。そして、十分な休養も準備もないままに、補給を無視した南京進撃の強行がつづいた。そのために兵士が自暴自棄的になり、軍紀が弛緩し、退廃するのも無理からぬものがあった。》
 
 歴史家である秦郁彦や笠原十九司の仕事の質と、「南京虐殺」が「虚構」であることを主張したい田中正明の仕事の質を、比べるつもりは初めからない。ただ、一見確実な証言証拠に基づくように見えるが実は「虚構」である主張が、どのようにして作られるのか、南京事件を「虚構」とする主張を注意して見ていくと、見えてくるのである。

(つづく)

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