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「南京事件」を考える 6 [歴史]

▼占領3日後には南京市内はすっかり落ち着きを取り戻し、日本兵が路傍で中国人の床屋に髪を切らせる平和な風景が見られたという新聞報道について、どう考えるべきだろうか。
 田中正明のあとを引き継ぎ、「まぼろし」説を精力的に広める活動をしている東中野修道という学者は、12月15日の安全区について、路上に食料品を売る者や床屋が店を広げている様子が「井家又一上等兵の日記」に記されている、と言う。
 《つまり、南京陥落三日目の12月15日には、安全地帯は避難民が商売ができるほど、文字通り安全となっていたのである。》と東中野は書く。(『「南京虐殺」の徹底検証』 平成10年)
 井家(いのいえ)又一の日記は彼が手帳に書きつけたもので、偕行社が発行した『南京戦史資料集』に収録されているので読むことができる。井家は、避難民の中から敗残兵を捕える「残敵掃蕩」のために、「安全区」へ出かけている。
 避難民は日の丸の旗をこしらえて家屋ごとに掲げていた。どの家屋も避難民で一杯で、井家たち兵士が入っていくと避難民は「恐る恐る笑ふ。又上手もする」。井家は、「哀れ敗残国民として全く同情に値するものと想う」(12月15日)と書く。また、「市街の何処に行けど日ノ丸の旗は掲げられている。肩に荷いて歩く物でさえ旗を手に持って歩く奴も居るし、又腕に巻きつけている奴も多数あるのである」(12月16日)と記している。

 南京陥落三日目の12月15日に、路上で食料品を売る者や床屋が店を広げていたことは事実である。しかしそのことが、「安全区」が「文字通り安全」であることを示しているわけではないことも、事実であろう。それは、家屋がみな日の丸の旗を掲げ、荷を担いで歩く者さえ日の丸の旗を手に持っているという事実が、日本軍への親近感や歓迎の意を示しているわけではないことと、同様である。
 日の丸の旗は何よりも、中国人民衆の日本軍への恐怖感を示している。つまり家屋も路上も「人の鈴なり」(井家日記)の難民区で、その鈴なりの民衆相手に食べ物屋や床屋が店を広げる光景と日本軍への深い恐怖感は、同時に存在したと読むべきなのである。

▼中国人民衆の恐怖感の由来を、民衆の側から記録したのが「ラーベ日記」だとすれば、「井家日記」はそれを日本軍兵士の側から記録したものの一つである。以下、長くなるが、「井家日記」を引用する。(文章としておかしいところもあるが、短時間に書きつけた日記に付き物の瑕瑾であり、実状は伝わってくる。)

 《………午前拾時から残敵掃蕩に出ける。……午後又出ける。若い奴を三百三十五名捕えて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。全く此の中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる。体にすがる全く困った。……/揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺に行った。》(12月16日)

 《醤油と砂糖の徴発に出かけ難民の家に行き箱から蓋を取った釜の中を見、引出の中を開き色々と中をさがすのだ。難民の見ている前でやるのだから彼等とて恐ろしい日本兵の事何もする事も出来ずするままである。……/畠の中で、葱、人参、菜葉を取って、籠迄取ってきて難民に洗はし掃除迄皆やらすのだ。残飯は皆難民にあたえるので彼等は嬉々として我々の下に働くのである。手榴弾を取って来て池の中に投げ又魚を取る。全く悪い事の出来得るかぎり働くのである。》(12月19日)

 《夕闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神明にひかえている。後に死が近くのも知らず我々の行動を眺めていた。百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座を至る所に見る。日はすで西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶち込めた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落着を失っているを見る。戦にやぶれた兵の行先は日本人軍に殺されたのだ。針金で腕をしめる。首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出てきたのを突殺す。/暗き中にエイエイと気合をかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しバンバンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の粉は飛散しているのである。帰る道振返れば赤く焼けつつある。/向うの竹藪の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。》(12月22日)

▼当時の新聞紙面は、軍当局が発表した戦況報告や華々しい武勇伝、戦場美談のたぐいで埋められ、南京占領時には慶祝ムード一色、日本軍の恥部に触れた記事はほとんど見られない、と秦郁彦はいう。秦はその理由を、検閲制度の徹底に求める。
 「従軍記者のレポートは、まず出先陸軍報道部の検閲を受け、本社のデスクでチェックされる仕組みになっていた。たとえ紙面に載せてみても、内務省図書課(憲兵が常駐)の検閲に引っかかれば、報道禁止、責任者の処分となるのは目にみえていた。」(『南京事件』)
 田中正明は、「120人もの従軍記者や特派員カメラマンのだれ一人として目撃した者もおらず、噂を聞いた者すらいないということは、いったいどう解釈したらいいのか」と、カマトトぶった反語で日本軍の無実を主張するが、これは設問自体が間違っている。正しい問いは、「120人もの従軍記者や特派員カメラマン」たちはなぜ、見聞きしたであろう日本軍の不祥事や兵士たちの非行を記事にしなかったのか、できなかったのか、という風に立てなければならない。
 検閲の存在はもちろん大きく、彼らが記事を送ったとしても没にされただろうし、海外特派員が欧米新聞の報道を転載紹介する形で本社に送った原稿さえ、紙面には載らなかった。しかしもうひとつ新聞報道を制約した要素として、早期の南京占領=戦争終了を望む国民の強い期待があり、記者たちは国民の期待に沿った記事を送るように自らを規制した、という面もあったのだろうと筆者は考える。
 いずれにしても当時の日本で「南京事件」の報道がなかったことを、事件が存在しなかったことの証明とするわけにはいかないのである。

(つづく)

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