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「南京事件」を考える 7 [歴史]

▼さて、「南京事件」の論争の焦点、「虐殺」の規模の問題に話を進めたい。
 南京城とその周辺地域は、日本軍の昭和20年の敗退までの約8年間、日本軍の支配地域であったから、「事件」の調査などは行われなかった。したがって「事件」についての論争が80年代以降盛んになり、指揮官や兵士の日記などがいくつも発掘されたが、事件の「規模」については乏しい資料をもとに推計するしかない。
 「南京事件」とは、中国人兵士と民衆の不法な殺害だけでなく、略奪、放火、強姦など横行した残虐行為の総体を問題にするわけだが、主として不法な殺害の規模をめぐって論争がなされてきたので、以下、その整理をしてみようと思う。
 
 中国軍兵士の死者については、日本軍各部隊の作成した「戦闘詳報」や「陣中日誌」が基礎資料となる。「戦闘詳報」には敵の動きと日本軍の行動が記され、戦闘参加将兵数、死傷者数、消費弾薬量、敵の死者数、捕虜の数、鹵獲した武器の数などが附表に記入されている。
 「戦闘詳報」の記録は戦果を過大に報告する傾向があるといわれ、(「実数の二~三倍にふくらむのは当時でも常識とされていた」秦郁彦『南京事件』)、戦後焼却されたものも多く、公開されていないものが少なくない。しかし欠けている部分があったとしても戦闘の状況を知ることは、「事件」全体を理解する上で欠かせない。
 民間人の被害者数については、日本側のデータはまったく欠けている。空襲で死んだ者、戦闘の巻き添えで死んだ者、南京城の日本軍占領後に兵士と誤認されて処刑された者、日本軍兵士による略奪・強姦ののち殺された者など、いろいろな形で多くの民衆が殺害されたのだが、スマイス調査などわずかな資料から推計するしかない。

▼「大虐殺派」と呼ばれる笠原十九司は「虐殺」数について、「南京事件において十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される」と主張する。(笠原『南京事件』1997年)。いっぽう「中間派」と呼ばれる秦郁彦は、約4万人と推計する。(秦『南京事件』増補版 2007年)
両者の推計はどこが違うのか、推計の内訳を比較しながら見てみることにする。

 笠原は対象期間を昭和12年12月4日前後から翌13年3月28日までとし、秦は12月2日から翌13年1月末までとする。12月4日前後とは日本軍の南京への進撃が開始された時期であり、翌年3月28日は日本軍の傀儡である「中華民国維新政府」が成立した日である。要するに治安が回復した時期ということで、「1月末」とそれほど大きな違いはないだろう。
 笠原は対象区域を「南京城区とその近郊6県を併せた行政区としての南京特別市全域」とする。南京城区は山手線の内側に相当する面積だが、「南京特別市」は東京都と神奈川県、埼玉県を併せた広さだという。一方秦は、「南京城内とその郊外」としており、「その郊外」がどの程度の広さなのかは不明である。
 南京城区の人口だが、笠原は次のように推定する。37年3月末には102万人の人口だったが、日本軍の空爆のために脱出する者が相継いだ。しかし中国軍の「清野作戦」の犠牲になった周辺地域の農民が難民として流入し、また日本軍の進撃を逃れて移動してきた農民も多く、「南京攻略戦が開始されたときに南京城区にいた市民は40~50万人だった」。
 一方秦は、「国際委員会スマイス博士のいう20~25万人という推定が比較的信頼できる」という。
 中国軍の兵力について、笠原は15万人と推定するのだが、戦闘兵11万~13万以外に防御陣地工事に動員された軍夫や雑役を担当した少年兵、輜重兵などの非戦闘兵がいたと見ている。
 これに対し秦は10万人説を採用する。当時の日本軍は10万と見ており、中国側や外国人居住者は5万人と見ていた、《台湾の公刊戦史が記すように「当初は10万、落城時は3.5万~5万」とするのが実態に近いかもしれない。》そして戦闘直前にかき集められた多くの民兵がいたことも認め、これが中国側の主張する兵力数に含まれているかどうかは確かでない、という。

▼中国軍兵士の死者の数について、笠原は総勢15万人のうち約2万人が戦闘中に死傷、約4万人が南京を脱出して再結集し、約1万人が逃亡ないし行方不明、残り約8万人が捕虜、投降兵、敗残兵の状態で虐殺されたと推定する。
 秦は総勢10万人のうち戦死者が3万人、南京脱出に成功した者3万人、捕虜として生存した者1万500人、捕らわれて殺害された者3万人と推定している。(増補版による修正)

 住民の犠牲者の数については、金陵大学の社会学教授で安全区国際委員会の事務局長を務めていたルイス・スマイスが調査をした結果が残されている。スマイスは昭和13年3月から6月の期間に、学生を使って南京市内と郊外6県のサンプリング調査を行った。
 筆者はその調査結果を読んでいないのだが、それによると南京城内での民間人の殺害は3250人、拉致されて殺害された可能性が高い者が4200人、農村部での殺害は2万6870人と算定されているらしい。(笠原本に拠る)
 しかしこの調査結果も使いながら、どのように住民の犠牲者数を算出したのか、笠原も秦も上記の書物で詳しい説明をしていない。それでも秦は、「スマイス調査(修正)による一般人の死者二万三千」とし、その2分の1から3分の1、つまり1万2千人から8千人が日本軍による虐殺と試算する。秦はこの住民の犠牲者数(8千~1万2千人)と捕らわれて殺害された中国兵3万人を併せ、最終的に虐殺数を3万8千人~4万2千人と推定した。
 (増補版では、住民の犠牲者数は中間値を取って1万人とし、虐殺数は計4万人、ただしこの数字は「最高限」で「実数はそれをかなり下回るであろう」と付言している。)
 いっぽう笠原本には、住民の犠牲者数について定量的な検討や説明はない。スマイス調査のサンプルには、「犠牲の大きかった全滅家族や離散家族」が抜けており、「犠牲者数はまちがいなくこれ以上あったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる」と述べられるだけである。そして叙述は突然、中国軍民の犠牲は「十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上」と推測される、との結論に飛躍する。

(つづく)


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