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「南京事件」を考える 8 [歴史]

▼「虐殺」の規模に関連して議論が避けられない問題に、「戦時国際法」に関わる問題がある。日本軍が南京で捕虜にした中国軍兵士を大量に処刑し、また武器と兵服を捨て民間人のあいだに逃げこんだ兵士を「便衣兵」として狩り出し、兵士であるかどうか確認する手続きもなく処刑した事実をめぐり、「まぼろし派」が「戦時国際法」に違反しないと主張したからである。
 「戦時国際法」とは具体的には「陸戦の法規慣例に関する条約」(1907年)(いわゆるハーグ陸戦条約)であり、日本も批准している。戦争自体は避けられない場合も、その惨害をできるだけ軽減するために、戦争に関する慣例を条約として成文化し、交戦者の行動の規範として定めたものである。
 具体的な内容は、条約付属書として「規則」に示されている。たとえば「俘虜」については、人道的に取り扱われるべきこと、その所有物は兵器や馬、軍用書類を除いて依然俘虜のものであること、俘虜を労務者として使役することができるが、将校は除かれること、俘虜には糧食、寝具、衣服を支給すべきことなど、ヨーロッパ社会の慣例を基礎とした規定が並んでいる。(余談だが、筆者はこの規定を読んで、映画「戦場に架ける橋」で捕虜の英国軍将校が、日本軍指揮官の命ずる労役に服することを頑強に拒否する場面を思い出した。)
 また、「規則」は「禁止事項」として、「敵国又は敵軍に属する者を背信の行為をもって殺生すること」、「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」、「助命せざることを宣言すること」を明確に定め、禁じている。(23条)
 したがって南京においても、投降兵や捕虜の処刑が違法なことは明らかであり、武器と軍服を捨て民間人のあいだに逃げこんだ兵士を、摘発するのはよいとして、「便衣兵」だから法の埒外だとして兵士が勝手に処刑することも、違法といわねばならない。

 以前に取り上げた田中正明『南京虐殺の虚構』のなかに、従軍記者だった前田雄二(同盟通信)の戦後の著作から引用した部分がある。
 《翌日(12月16日)新井と写真の祓川らといっしょに軍官学校で「処刑」の現場に行きあわせる。校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫く。悲鳴をあげて濠に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっていた。》
 この捕虜が、どのような経緯で捕らわれた者たちか分からないが、あるいは翌17日の松井司令官入城式を前に徹底して行われた、「便衣兵」狩りの捕虜だったかもしれない。
 前田雄二も田中正明も、「便衣兵」なら「戦時国際法によって保護されず、処刑して当然」と思い込んでいるようだが、本来の「便衣兵」とは兵隊の服を着用せずにゲリラ活動を行う戦闘者のことである。戦意を失い、ただ生き延びるために民間人の服(便衣)を着て民間人のあいだに逃げ込んだ人々を、ゲリラ活動を行う戦闘者と同一視することは適当でないし、軍事裁判の手続きなしの処刑を正当化することは、さらにできないはずだ。

 日本軍が南京で行った行為をなんとか免罪したいと、田中正明や東中野修道たち「まぼろし派」が「戦時国際法」を持ち出し、ひねりだす理屈の多くは、「規則」の無理な読解・曲解に拠るものであり、取り上げるに値するようなものではない。
 
▼「南京事件」の「規模」の問題に話を戻す。この問題について、筆者の力では自分の回答を用意することはできない。しかし「大虐殺派」と「中間派」の推計の差がどこから生じるのか、おおよその見当はつくように思う。
 まず中国軍兵士の「虐殺」を、「大虐殺派」の笠原が「8万人」とし、「中間派」の秦が「3万人」としている点である。
 笠原は「8万人」の内訳を表にしているので、具体的に検討することができるのだが、たとえば12月13日の欄に、「5000~6000」、「約2000」、「約1万」と人数が並び、「長江渡江中殺戮」という説明がついている。12月13日の日中から夜にかけて、総崩れの中国軍は揚子江を渡って逃げようと南京城を脱出し、揚子江南岸から小舟や筏で流れの中に漕ぎだした。それに対して日本軍が砲射撃を加え、海軍も軍艦からサーチライトで水面を照らし機銃掃射し、敵の殲滅をはかったのである。
 「5000~6000」は歩兵38連隊の戦果、「約2000」は歩兵33連隊の戦果、「約1万」は海軍の戦果として、それぞれ報告されているものだが、笠原はこれらをすべて「虐殺」にカウントする。なぜなら「12月13日早朝に南京城は陥落し、南京攻略戦の直接の戦闘は決着がつき、南京防衛軍も完全に崩壊してしまっていた。したがってその後の中国兵は、戦闘員を人道的に保護するために、投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在だった」と、笠原は考えるからである。「日本軍が徹底した殲滅戦を強行したために、投降兵、敗残兵を殺戮したのは、同条約に違反する不法行為であり、虐殺行為であった。」
 しかし逃げる敵兵への攻撃を、ハーグ陸戦条約違反の不法行為と主張できるかどうかは、かなり微妙だと思う。勝負がついた後の無用な殺生を忌む心は、日本武士道、西欧騎士道に共通するものであろうが、総力戦時代の戦争はそういう美学をつねに許容するものではない。上の戦闘行動を国際法違反だと主張し、死者を「虐殺」にカウントすることは、かなり難しいのではないか。

▼つぎに殺害された民間人の数だが、秦は1万人と推計しているのに対し、笠原は推計結果を示さず(あるいは示すことができず)、「南京事件において十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される」という結論にいきなりジャンプする。
 「十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上」という数は、「中国軍民」の犠牲者の数である。笠原は中国人兵士の犠牲者数は示したが、民間人の犠牲者数は示せない。それなのに軍民合わせた総数を、どうして示せるのだろうか。
 このことは、笠原の頭の中ではじめに犠牲者全体の規模が固まり、それを横目で睨みながら中国軍と民間人の犠牲者数を試算し、民間人については結局満足できる試算ができなかった、という事実を示している。そしてこのことは笠原が、洞富雄を中心に結成された「南京事件調査研究会」のメンバーであることと関係する、と筆者は想像する。

(つづく)

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