SSブログ

「南京事件」を考える 4 [歴史]

▼田中正明の主張を、あと少しだけ続ける。
 田中は南京攻撃に参加した日本軍の規律について、当時の軍将校の証言を並べ、軍紀は厳正に保たれた精鋭軍だったと述べる。

 「当時(占領後=筆者註)南京における日本憲兵の取締りは厳重をきはめ、如何に微細な犯罪も容赦しませんでした。」「私は十二月十五日、南京城内巡視の際、難民区(安全区)の実情を視察したいと考へましたが、憲兵が厳重に警備して居って部隊長と雖も特に許可がなければ立ち入りは禁ぜられてあると云って拒絶され、遂に内部を視察することを得ませんでした。その時もその後も私は難民区内で日本軍の不法行為があったことを聞きませんでした。」(東京裁判での脇坂部隊長の宣誓口供書)
 「当時〈下克上〉の風潮で、司令官の云うことなど聞かず、下部の将兵が勝手なことをしたのではないかと「虐殺論者」はいうが、そのようなことは絶対にない。若しそうだとするなら、あのような見事な完璧にちかい南京包囲作戦などできるはずがない。……一部将兵に過剰な行為があったかもしれないが、軍全体は健全で、軍紀厳正な精鋭軍であった。」(畝本正己・独立軽装甲車小隊長の論文 昭和59年)
 だから、《日本の兵隊がトラック3台を連ねて、金陵大学の女生徒を廊下に並べて強姦ゲームをしたとか、難民区内に押し入って寝具や食糧を掠奪したなどという証言がいかに大ウソであるか理解できよう》 というのが、田中の主張である。

 また日本軍兵士の質について、支那事変が拡大し戦線が拡がるにしたがって師団数は増やされ、兵隊も粗製濫造、中年男子まで動員するにいたったが、南京戦当時は《バリバリの現役兵で、畝本氏もいうように文字通り日本の精鋭であった》と田中は考える。

▼田中正明の、「南京虐殺」は「虚構」だとする「証明」はまだまだ続くが、おおよその主張は上に示した。要するに田中は、「南京事件は東京裁判の時点で創作発表された虚妄のドラマ」だとし、「大虐殺」の主張をする人々は、中国政府ないし中国人「証人」の発言を、内容の吟味なしに鵜呑みにしているに過ぎない、と批判するのである。

 「事件」当時南京には、中国人以外に少数の外国人がいた。彼らは南京に「安全区」(あるいは「難民区」)をつくって城内にいる中国人市民を守ろうと奔走し、その記録を残している。
 外国人とは、南京の金陵大学で教える教授やキリスト教会関係者、病院の医師、民間企業の管理者などで、イギリス、アメリカ、ドイツ人、デンマーク人である。彼らは日本軍の南京攻撃を前に各国大使館が館員を引きあげた後も南京に残り、「南京安全区国際委員会」をつくり、南京城内の約8分の1にあたる地域を「安全区」とするよう、中国軍の南京防衛司令長官と日本政府に働きかけた。「安全区」を非武装地帯とし、日中双方から認めてもらうことで、地区の安全を確保しようとする構想である。
 南京防衛軍司令長官は、「安全区」から軍関係者や軍事施設を撤去させると約束した。しかし司令長官の約束のあとも、中国軍が地区内にあらたな塹壕を掘り、軍の電話を引いたりしていたことが、「南京安全区国際委員会」の代表に選ばれたドイツ人ジョン・ラーベの日記に記されている。
 日本政府からの回答は、「安全区の設置に同意できません。ただ軍事上の必要な措置に反しないかぎり、当該地区を尊重するよう努力する所存です」という内容だった。ラーベはこの回答に、「言質を取られないように用心しているが、基本的には好意的だ」と受け止める。

▼ジョン・ラーベ(1882-1950)は事件当時、ドイツのジーメンス社の南京支社長だった。1908年から北京や上海で働き、ほぼ30年間を中国で過ごしていた。第一次大戦後、彼は日記をつけ始め、これに情熱を注ぐようになった。
 ラーベの日記を出版するために編纂した歴史学者で元外交官であるE.ヴィッケルトは、学生時代に南京のラーベ家で数週間を過ごしたことがあり、ラーベを個人的に知っていた。彼によればラーベは素朴で親切で謙虚、人に愛される健全な常識の持ち主であり、ユーモアがあり、実務的能力に富んでいた。中国の芸術にかなり詳しかったが専門家ではなく、政治にはあまり関心がなかったが愛国者であり、ヒトラーが平和を望んでいると素朴に信じていた。
 ラーベはジーメンス社の中国人従業員を守るために南京に残る決心をし、8月15日から始まった日本軍の空爆に備えて自宅の庭に防空壕を掘らせ、空から見えるようにハーケンクロイツの大きな旗を広げた。また委員会として南京市から米や小麦粉を貰い受け、必死で安全区に運び込んだり、「安全区」から中国軍と軍の施設を残らず引き上げるよう南京防衛軍司令長官に抗議に行ったり、「安全区」を市民に知らせる方法について議論したりと、忙しく走り回った。
 南京市の市民たちは空爆以来つぎつぎと市を出て揚子江をさかのぼり、漢口や重慶の方へ移住していき、市内には行くあてのない貧しい人々が残され、「安全区」へと移動した。12月7日には南京市長が姿を消し、国際委員会が「安全区」の行政上の問題や業務をすべて処理しなければならなくなった。ラーベは事実上の「市長代理」になってしまい、「まったくなんてことだ!」と日記に書く。

▼以下、ラーベが異常な情熱のもとに毎日記した日記(『南京の真実』1997年)に拠り、日本軍占領前後の南京城内、とくに「安全区」の状況を見ていくことにする。
 日記は手紙と並んで歴史学上の「一次資料」であり、南京「安全区」を実質的に創り管理していた組織の代表者の日記は、きわめて貴重な資料といえる。
 「南京事件」を「まぼろし」だと主張する者の中には、「ラーベ日記」は「三等資料」だと酷評する者もいるようだが、田中正明の本の内容と「ラーベ日記」の内容を比較検討するなかで、自ずと見えてくるものがあるだろうと筆者は考えている。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。