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「南京事件」を考える 3 [歴史]

▼著者・田中正明は『「南京虐殺」の虚構』の証明を、当時の新聞記事の点検から始める。「朝日」、「東京日日」、「読売」3紙の昭和12年12月から13年2月までの紙面を詳しく点検し、《自主規制や検閲があったとはいえ、この三紙のどのページをくってみても虐殺や暴行の匂いさえも感じられない》と書く。
 たとえば朝日新聞は南京陥落(12月13日)後の状況を、7回にわたる写真特集で伝えた。12月20日の新聞は「皇軍を迎えて歓喜沸く/平和甦る南京」とタイトルを掲げ、4枚の写真(17日撮影)で半ページを埋めているが、1枚目は「兵隊さんの買物」で、露天商で買い物する兵隊を市民が取り巻いている写真である。2枚目は「皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民たち」、3枚目は「皇軍に保護される避難民の群」と題する写真で、20~30人ほどの市民がぞろぞろ市内に帰ってくる風景である。4枚目は「和やかな床屋さん風景」で、腕に日の丸の腕章をまいた支那人の床屋が、街頭で日本兵の頭を刈っている写真。
 田中は言う。《一方で何十万人という虐殺が行われているのに、他方でこのような和やかな風景が展開されるなど、どうして想像できようか。》
 朝日新聞の22日の写真特集は「きのふの敵に温情/南京城内の親善風景」と題し、「治療を受けている支那負傷兵」や「皇軍将兵の情に食欲を満たす投降兵」(支那人捕虜が大勢ならんでいる間を日本兵が白飯を配給している)など、5枚の写真。
 25日は「南京は微笑む/城内点描」と題して、「玩具の戦車で子どもたちと遊ぶ兵隊さん(南京中山路にて)」、「戦火収まれば壊れた馬車も子どもたちの楽しい遊び場だ(南京住宅街にて)」など4枚の写真である。「支那人の子どもの無心に遊ぶさまを眺めて、兵隊さんは国に待つわがいとし子を偲んでいるのだ」と、特派員は記事を添えている。
 
 田中は言う。南京は総面積僅か40平方キロメートル、世田谷区の5分の4の広さしかない。その狭い地域に新聞・雑誌・ラジオ・映画等のカメラマンや従軍記者120名が取材に入り、特ダネを競い合っていた。大宅壮一、木村毅、西条八十といった高名な文筆家もその中にいた。
 《東京裁判によると、初めの一週間に児女を含む六万五千人の中国人が虐殺され、日本軍による計画的な放火・略奪・強姦・殺戮の‘悪魔の饗宴’がピークに達し、それが四十日間も続いたと云う。これだけの血なまぐさい大惨劇が連日行われたというのに、120人もの従軍記者や特派員カメラマンのだれ一人として目撃した者もおらず、噂を聞いた者すらいないということは、いったいどう解釈したらいいのか。》

▼著者・田中正明は次に、当時現地にいた人びとの証言を集め、「南京虐殺」が虚構であることを証明する。
 福田篤泰はのちに自民党代議士として防衛庁長官や郵政大臣となったが、当時は南京大使館の外交官補として「国際委員会」からの抗議や苦情に対応していた。
 《………日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし、二十万、三十万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。あの狭い城内に日本の新聞記者が100人以上も入っていたのである。外人記者も外国の大公使館の人々も見ている。船も外国の艦船が五隻も揚子江に入っている、いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である。……一番の難問題は難民区の中に逃げ込んだ便衣隊をどう摘出するかということであった。委員会では普通の良民がひっぱられたといって訴えてくる。ぼくらは軍に、気をつけてくれと申し入れる。帽子のあとがあるとか、丸坊主だとか、手に銃を持ったタコがあるとか、ともかく数千の敗残兵が難民区に逃げ込み、委員会がこれを許してかくまった。しかも何の識別もしなかった。それがのちのちの問題になったわけである。……便衣隊は戦時国際法の違反であり、即時射殺も構わないことになっている。この処刑問題があっただけで、それも数からいえば千人足らずと思う。》

 当時、同盟通信の従軍記者として前線部隊と行動を共にした前田雄二(日本プレスセンター専務理事)の証言は、次のようなものである。
 《いわゆる‘南京大虐殺’というのは、……主として住民婦女子を虐殺したというものだ。ところが、殺されなければならない住民婦女子は<難民区>内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はその内にあり、入城4日目には、私たち全員この支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活が回復した住民居住区の状況は逐一私たちの耳目に入っていたのだ。こういう中で、万はおろか、千、百あるいは十をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずがなかった。すなわち、「捕虜の処刑、殺害」はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の多量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは見過ごしていいことではない。》

 福田篤泰の証言も前田雄二の証言も顔写真入りで紹介されており、当時現地で活動していた人の言葉としてそれなりの重みを持つ。

▼上の福田証言、前田証言がいみじくも触れている「便衣隊」や「捕虜」の扱いの問題は、「南京事件」の最大の焦点なのだが、詳しくは後で検討することにし、ここでは田中正明がどう弁明しているかを見ておこう。「便衣隊」とは、日本軍の手から逃れるために、軍服を脱いで便衣(平服)に着替えた中国軍兵士を指している。南京軍司令長官・唐生智が12月12日に南京城を脱出したあと、逃げ遅れた兵士たちの一部は武器を捨て軍服を脱ぎ捨て、安全区に逃げ込んだのだ。
 《……悪性の捕虜―――たとえば武器を隠匿して床下や屋根に潜んでいる者、降伏するとみせて逃亡をはかる者、最後まで抵抗をやめないもの、便衣に代えて潜伏している者、………すなわち戦時国際法において捕虜に該当しない敗残兵や便衣隊も相当おり、これらを処刑したことも事実である。》
 《これは戦時国際法に違反する便衣隊や悪質捕虜に対して撮った「応急措置」であり、「虐殺」とは言えない。》

▼田中正明は、中国軍兵士による放火、略奪、破壊、殺戮が日本軍の犯罪とされた、という主張もしている。
 《清野作戦―――または<空室清野作戦>ともいうが、……当時支那軍の敗退時における〈略奪〉と〈焼払い〉は、彼らの常套手段であった。すなわち侵攻してくる日本軍を困憊に陥れるため、家屋を焼き、食糧―――とくに収穫期の米倉や稲架や薪炭貯蔵庫に火を放って焼き、日本軍に宿泊所も食料も与えないという作戦である。上海から南京までの戦闘で、この作戦は徹底してとられた。南京戦もその例外ではなかった。》
 そして南京で指揮官が脱出したあとの中国軍敗残兵が暴徒化し、放火、略奪がいたるところで発生したことを、田中はニューヨーク・タイムス記者の記事や匿名の外国人の日誌を引用して述べている。

(つづく)

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