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「南京事件」を考える 10 [歴史]

▼他方、「大虐殺」派が政治的、党派的利害と無縁かといえば、そんなことはない。もちろん歴史学者を中心に集まった「研究会」であるから、史料批判や記述は「職業的良心」に従ってなされている。しかし彼らは、自分たちの「20万人以上の犠牲者」説に賛同せず異説をたてる秦郁彦たち「少数派」に対し、敵愾心を隠さない。
 「研究会」の中心だった藤原彰は、南京事件の研究が進み、事件を「まぼろし」だ、「虚構」だといって全面否定することは不可能になったので、そこで登場したのが「少数論」だ、と批判した。
 《「少数論」に共通しているのは、虐殺の範囲をなるべく狭くとり、その上で人数をなるべく少なく計上することによって、中国側の三十万という数字を否定し、ひいては「大虐殺」そのものを否定するという手法である。………「大虐殺説」とは「三十万説」であるという前提をつくり、三十万説の不十分さや誤りを論証することによって、「大虐殺」そのものを否定しようというのである。》(『南京大虐殺の現場へ』1988年)
 しかしこれは、文献資料を正確に読むことを仕事とする「歴史学者」にあるまじき党派的発言である。
 秦は『南京事件』(1986年)のあとがきで、「数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人として、中国国民に心からお詫びしたい」と書いた。
 また、藤原の発言よりも後になるが、「まぼろし」派について秦は、《二十万、三十万という虐殺はありえぬと声高に叫ぶが、ゼロだと言いはっているわけでもなく、いくら問いつめても数については口をつぐむ。現代の感覚だと、三百人や三千人でも「立派な大虐殺じゃないか」と言い返されるのを知っているからだろう》と、皮肉っている。(『現代史の争点』1998年)
 藤原の指摘は「まぼろし」派の活動については当たっているが、それを「少数論」にまで拡げ、その仕事を全否定しようとする党派的姿勢には幻滅を覚える。

▼筆者は以前のブログに書いたように、虐殺の規模について判断する用意がないし、「少数派」の主張が正しいと結論を出したわけでもない。「研究会」メンバーの、「まぼろし」派を批判する研究にも、有意義なものが少なくないという印象を持っている。
 しかし中国政府が戦後の戦犯裁判のために急いでこしらえた「虐殺三十万人」という数字、あるいはその主張をもとに東京裁判判決が示した「二十万人以上」という数字を、なぜか墨守しようとする「研究会」の姿勢には、学問的動機以上のものを感じる。笠原十九司の書いた次のような一節は、筆者の疑いを裏書きしているように見える。
 《我々の現段階における推定総数と中国側の「虐殺三十万人説」との違いは、さほど大きな問題ではない。南京大虐殺の規模の大きさと内容の深刻さを認識していることにおいて、基本的には我々と中国側とは同じである。》(『南京大虐殺否定論・13のウソ』1999年)

 中国を侵略した歴史への反省は、多くの日本人に共有されているだろうが、それをどのように受け止め、生かそうとするかは、中国との友好関係に対する考えと同様、ひとそれぞれであろう。しかし「研究会」は「南京事件」の事実の究明という問題に、歴史への「罪悪感」や「日中友好への思い」を密輸入し、「虐殺三十万人説」や「二十万人説」に疑問を投げかける研究を排斥する。それは異なる思考を党派的対立の中に閉じ込め、論争を不毛なものにする。
 (たとえば北村稔『「南京事件」の探求』(平成13年)を、筆者は新しい発見のある有意義な研究だと考えるが、笠原十九司『南京事件論争史』(2007年)は党派的対抗心むき出しで、これを全否定する。)

▼本稿を閉めるにあたって、感想をいくつか記しておきたい。
 まず、「南京事件」の原因となった日本の対中国政策の混迷と、政治的意志決定力の致命的弱さについてである。
 昭和12年12月、日本は南京という一国の首都を占領した。しかし日本は自分たちが決定的に重大な行為をしたという自覚に乏しく、行為の前後にその影響と意味をしっかり検討することもなかった。当時の日本人の意識を平たい言葉で言えば、「自分たちは占領などしたくなかったのに、中国政府の態度が悪いから、占領せざるを得なかった」といったことになるだろうか。
 そもそも南京を占領する意思は、はじめ日本政府にも軍中央にもなかったのである。しかし軍中央は中国戦線を闘う現場に引きずられ、政府は軍に引きずられ、現地軍の行動をつぎつぎに追認した。それは7月に生じた盧溝橋での偶発的衝突事件を、政府と軍中央が希望しないにもかかわらず華北の広範囲での戦闘に拡大し、華北の戦闘を上海に、そして日中の全面戦争に導いた構造そのものだった。
 ドイツの中国駐在大使・トラウトマンを通じた蒋介石との和平交渉も、比較的穏やかな条件で折り合いが付きそうだったのだが、南京を占領したために日本側は要求を吊り上げ、決裂。日本政府は、「爾後国民政府(蒋介石)を対手とせず」と声明を発表し、本音では日本と闘うよりも共産軍と闘いたい蒋介石を、むりやり日本軍との戦争に追いやり、戦争はその後8年間続いた。
 こういう愚かな日本の政治に振り回され、命を落とさなければならなかった中国の民衆も日本の兵隊も、つくづくかわいそうだと言わねばならない。
 そして日本の政治的意志決定力の致命的弱さは、昭和前期に限られるものではなく、そのDNAは現在まで脈々と受け継がれているのではないかという怖れが、筆者の頭から離れない。

▼もうひとつ思うのは、のちの太平洋戦争で無惨な形で明らかになる日本軍の兵站軽視の思想や、捕虜や投降兵を無視する考え方が、すでに南京への進撃段階で如実に表れていることである。
 南京城の内外でなぜ大虐殺が行われたのか、という問題について、論者の考えは一致している。南京城一番乗りの手柄欲しさに、日本軍各部隊は兵站を軽視して将兵の尻を叩き、兵隊たちは「徴発」と称して中国人の食糧や財産を強奪することを許された。「徴発」が認められることで強姦への心理的規制は弱まり、強姦殺人や証拠を隠滅する放火がまかり通る事態となった。
 また日本軍部隊の指揮官は、「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなし……」(中島第16師団師団長日記)という考えであり、捕虜収容のための機構も作らず、食糧もなく、要員も配置しなかった。第一線部隊が敵兵を捕虜にしても、引き取ってもらうところもなく、「上級司令部へ問い合わせた場合は、ほぼ例外なく、処刑せよと指導され」たという。(秦『南京事件』)。ここにはハーグ条約のかけらもない。
 兵站を軽視する日本軍は、のちの太平洋戦争で兵士の「6割が餓死」する事態を招き、捕虜を無視する考え方は、兵士に「玉砕」を強い、民間人にも投降より死を選ばせるような悲劇を生み出した。
 中国軍兵士の蛮行のあと日本軍兵士の蛮行を見せつけられたジョン・ラーベが、嘆息して、「ここはアジアなのだ」と日記に書きつけていたことが、印象に残る。

▼現在、「南京大虐殺」をめぐる「論争」はどうなっているのだろうか。
 秦郁彦『南京事件』の増補版が新たに収録した「南京事件論争史」の最後に、オーストラリア人研究者の観察(2005年の論文)が引用されている。
 《左翼陣営の世界的な権威失墜、日本の政治的な保守化を背景に、「大虐殺派」には元気がなく、次の世代(笠原十九司の後継者)が未だに出現していない。これに比べて、「まぼろし派」には大変な勢いがあり、田中正明から東中野修道などへの世代交代に成功した。》
 議論としてはデタラメな「まぼろし派」になぜ「大変な勢い」があるのか、といえば、デタラメを受け入れる(あるいは受け入れたい)市民層がいるからである。そういう市民層が存在するだけでなく、増えているのだろう。中国政府が「歴史問題」を国際政治上の武器として利用するのを見るにつけ、彼らには「まぼろし派」の主張が自分たちの不満を代弁してくれるように見えるのかもしれない。
 秦郁彦が語ったように、21世紀が当面「歴史観の争いになる」ことは、避けられそうもないようだ。しかしだからといって、内輪でしか通用しない「まぼろし派」の主張を振り回すことは、見苦しいだけで何の利益にもならない。
 負の歴史も見つめながら、対立するべきところはしっかりと対立し、対立の中から共通の利益、共同の未来の構築の方向に日中両国の関係を拓いていく、そういう政治的力が求められるのである。

(おわり)

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