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ひろゆき論2 [思うこと]

▼ひろゆきがアメリカのITベンチャーの創始者と話をしたとき、なるほどこれでは日本企業はアメリカに勝てないと、つくづく考えさせられたことがあったという。
 ある会社で、経営者が5人のエンジニアに、一つのシステム製品を作ってもらうとする。納期は3カ月以内、予算は600万円。アメリカの経営者は、予算を上乗せしてもいいから、どうしたら納期を早められるかを考える。5人のエンジニアを10人に増やすとか、1か月で仕上げるノウハウを持つ会社を買収してそこにやらせるとか、いかに早く完成させるかを最重視する。
 ところが日本の企業は、納期が遅れてもいいから半額にならないかと、値段を下げる交渉にばかり関心を向ける。アメリカでそんな仕事をしていたら、競争相手に先を越されるかもしれない―――。
 ひろゆきが語るこのエピソードは、「失われた30年」を招いた日本の企業行動の問題点の指摘として、適切である。しかし彼は、こうした考えを日本企業批判、日本社会批判として、主張のメインに据えるようなことはしない。日本社会の現状は与えられた前提条件とし、その中で若者はどう生きるべきか、どう働くべきかを語るのである。
 その内容は、ひろゆき本の大きな特徴といえるのだろうが、努力せよ、我慢せよ、マジメに頑張れば他人は評価してくれる、というようなことは決して言わない。反対に、楽をしろ、無理をするな、抜け道を探せ、いかに手を抜いて楽して成果を上げるかを考えろというのが、彼の主張の基調音である。ひろゆき自身が「怠け者」であり、それでも他人と少し違う考え方をすることで成功を手に入れたのだと、若者たちに語りかけるのである。

▼さて、ひろゆきが登場し議論するABEMA Prime というネット番組を、2本見た。
 1本は、前回紹介した『世界』の「ひろゆき論」の中で、批判の対象の一つとされたもので、2022年10月にひろゆきが沖縄県名護市辺野古の米軍基地建設反対の「座り込み」を見に行った時の「事件」を紹介しつつ、検討した番組である。ひろゆきが米軍基地のゲート前に来たとき、「座り込み」の小屋と3千何十日と書かれた看板はあったが、座り込む人は一人も見えず、彼は、「座り込み抗議が誰もいなかったので、0日にした方がよくない?」とツイートした。
 辺野古の米軍基地建設反対の「座り込み」は、2014年7月の国の工事開始に抗議して始まった。初めは24時間すわりこんでいたようだが、じきに工事車両が埋め立て土砂を搬入する9時、12時、15時に合わせて抗議する形になり、以来3千日を超えて抗議活動を継続しているのだという。それを聞いてひろゆきは、翌日15時にまた抗議活動を見に行き、基地建設反対の運動家たちは彼の姿を見て、前日のツイートに抗議したのである。
 運動家たちは、ひろゆきのツイートが抗議運動に対する誹謗であり侮辱であることを非難し、ひろゆきは座り込みの人がいなかったからいなかったと書いたのであり、事実を書いて何が悪いのかと言い返した。
 「ダンプカーを止めるために座り込みしてんのよ」
 「それは座り込みじゃなくて抗議行動です」
 「自分で勝手に定義しないでもらいたい」
 「ぼくの定義じゃなくて辞書の定義です」
 「24時間いなければ座り込みと言わないという定義が、辞書のどこにありますか?」
 「辞書に書いてあります」
 「書いてないよ。どこの会社の辞書?」
 「検索すれば辞書が出てくるんで、調べて下さい」
 「いや、あなたに聞いている。24時間座り込んでいないと座り込みという言葉は成立しないのか?」
 「座り込みは座り込んで動かないこと」
 「24時間じゃなきゃ駄目なんですか?」―――
 こういうしょうもないやり取りが続いたあと、反対運動の運動家たちは基地のゲート前に「座り込み」、そこへ土砂を積んだダンプカーが何台も到着し、運動家たちは「埋め立て反対」の声を上げた。彼らはひとしきり「反対」の意思表示をしたあと、機動隊の指示に従って「座り込み」を解き、トラックは基地の中に入って行った。

 ひろゆきのツイートには、28万以上の「いいね」が付いたという。

▼1996年に米軍の普天間飛行場の返還が日米政府間で合意され、普天間から移設する滑走路をキャンプ・シュワブ沖に建設することが決まった。移設反対の声もなかったわけではないが、当時の沖縄県知事もキャンプ・シュワブのある名護市長も賛成した、と筆者は記憶している。普天間飛行場は学校や民家に囲まれ、「世界で最も危険」な飛行場と言われていたから、その返還を最優先したことは合理的な判断だったであろう。移設する滑走路を建設する辺野古岬はキャンプ・シュワブに隣接している。
 辺野古の滑走路建設反対の声が高まったのは、民主党政権時の鳩山首相が問題をよく理解しないまま「最低でも県外移設」を言い、その後撤回するというお粗末なドタバタ劇を演じてからだと記憶するが、その辺の経緯は省略する。「平和な島・沖縄に軍事基地はいらない」という主張に、筆者は、そう考えるのは感情として無理はないだろうと認めつつ、日本の地政学から見て難しいと思った。当時、米軍基地が存在することに、軍事的な危険性があったわけではなく、基地反対運動は多分に「反米」や「反自衛隊」、「平和憲法擁護」という政治的、イデオロギー的な観念や感情に拠るものだったと考えたからである。
 しかし現在、沖縄の軍事基地のもたらす危険性は極めて高くなっていると考えるべきである。米国の国力が相対的に低下し、中国の軍事力は格段に増強されている。習近平が合理的に思考するなら、それでも台湾の軍事的併合に動くことはないだろうが、「国益」よりも「党益」を上に置く国体である。「党益」のため、あるいは習近平の個人的名誉のため、「台湾統合」を大きな犠牲を払っても果たさなければならないと思い立った場合、それを押しとどめるものがあるのだろうか。
 習近平が台湾統合を決意したとき、中国軍は台湾に地上軍を送り込み、占領しなければならない。海を渡って地上軍を送り込むためには、航空優勢の確保が最低限必要な条件であり、そのためにはミサイルを使って敵の航空戦力が飛行場にいるあいだに壊滅させたり、飛行場そのものを使用不能な状態に追い込むことが考えられる。つまり日本の自衛隊と米軍の航空戦力の基地や航空母艦は、「台湾有事」の際の必須の攻撃目標なのであり、とりわけ沖縄の基地はそうならざるをえない。
 「平和のために軍事基地はいらない」というかっては荒唐無稽に近かった主張が、今ではかなりのリアリティを持って考えられるようになってきたことを、認めざるを得ないのだ。

 沖縄の基地やその反対運動について議論をしたいのなら、そのような難しい現実について論じるべきであり、ガキの口喧嘩のようなまねの何が面白いのか、まったく理解不能というほかない。

(つづく)

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「ひろゆき」論 [思うこと]

▼インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」の管理人(正確には元管理人)西村博之という名前は、耳にしたことがあった。また、掲示板「2ちゃんねる」を何回か覗いたことがあり、このサイトの書き込みで被害を受けた人から、「書き込みを放置していた」責任を裁判で問われた、というニュースを読んだこともあった。だが、筆者と西村博之の関わりはそれだけであり、それ以上の関心を持つことはなく、この男が社会に影響力を与えるような存在になるとは思わなかった。
 ところが現在、西村博之の行動はネット世界にとどまらず、ビジネス書や自己啓発書を次々と出版したり、TV番組にコメンテーターとして出演したりと、活躍の場を広げているらしい。
 「その人気はとくに若い世代に顕著で、若者や青少年を対象とする調査では、憧れる人物として頻繁にその名が挙げられるほどだ」。「今やその存在はネット上のインフルエンサーの域を超え、若い世代のオピニオンリーダー、それもカリスマ的なそれとして広く認知されている」と、学者が論文を書くほどの存在になっているようだ。(「ひろゆき論」伊藤昌亮 『世界』2023年3月号)
 筆者はたまたま伊藤の論文を読み、西村博之が若い世代のオピニオンリーダー的人気を持つとしたら、筆者にとってかなり不可解な「日本維新の会」の現在の「人気」を、解き明かすヒントがあるかもしれないと思った。そこで最寄りの図書館に行って、西村の著書を借り出してきて読んでみた。
 残念ながら期待は大きく外れ、日本の政治社会の地殻変動を読み解く役には立たなかったのだが、別の意味で考えを刺激される部分もあったので、そのことを書いてみようと思う。

▼ひろゆきは1976年生まれ、「就職氷河期」世代である。(彼の著書では、「著者名」を「ひろゆき[西村博之]」と表記している。どの著書でもひらがなのペンネームにカッコ書きで本名を付けているところを見ると、「ひろゆき」は「イチロー」ほど認知されているわけではないと、自覚しているのだろう。このブログでは彼の「希望」に沿って、「ひろゆき」のペンネームで呼ぶことにする。)
 中央大学に入学し心理学を専攻するが、パソコンに夢中になり、1999年に掲示板「2ちゃんねる」を立ち上げ、また在学中にアメリカのアーカンソー州の大学に1年留学した。大学卒業後も企業に就職せずにプログラマーのような仕事を続け、2005年に株式会社ニワンゴの取締役管理人になり、「ニコニコ動画」を開始。2009年に掲示板「2ちゃんねる」を譲渡。2015年に英語圏最大の匿名掲示板「4chan」の管理人になり、2019年にSNSサービス「ペンギン村」をリリース。
 現在はフランスのパリに住み、半分“余生のような”生活を送る。自身のYouTubeチャンネルの登録者数は2022年2月時点で142万人、Twitterのフォロワー数は145万人を超える。著書多数。(以上の彼の履歴は、著書の奥書に書かれたものを、著書の叙述によって補足した。)

 筆者が図書館から借りだしてきた彼の著書を、次に示す。
 『論破力』(朝日新書 2018年10月発行)、『このままだと、日本に未来はないよね。』(洋泉社 2019年3月)、『1%の努力』(2020年3月)、『叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」』(三笠書房 2020年12月)、『ひろゆきのシン・未来予測』(マガジンハウス 2021年9月)、『誰も教えてくれない日本の不都合な現実』(きずな出版 2021年11月)、『ひろゆき流ずるい問題解決の技術』(ダイヤモンド社 2022年3月)、『ひろゆきと考える 竹中平蔵はなぜ嫌われるのか』(集英社 2022年6月)、『無理しない生き方』(きずな出版 2022年7月)。
 図書館にはまだまだ彼の著書があったし、貸し出し中のものも多かった。上のリストは発行年月順に並べておいたが、近年の「著作量」が顕著であり、そのことはよく売れるので彼の周囲に出版社が群がっているということを意味する。
 内容はどれも薄く、同工異曲だが、ひろゆきは自分の「著作量」の秘密を隠さずに述べている。  「……僕は、こうやって本を出す機会をいただいていますが、自分で文章を書くことはほぼありません。しゃべったことをライターさんに筆記してもらったり、僕がだらだらしゃべっているユーチューブの内容を編集者にまとめてもらったりすることで、本を出すことができています。」

▼筆者はざっと目を通しただけなので、読み落としはいろいろあるだろうと思われるが、一応ひろゆきのキャラクターは理解できたし、その主張は結構まともだと思った。
 彼の主張は、日本に明るい未来はないこと、日本経済は悪くなり「貧しい国」になることを前提とし、それでもそこに生きる一人ひとりは十分幸せに生きられるのだと、考え方や心構えについて語るものである。どのようなことを語っているのか、具体的に挙げてみよう。

・日本は遠くない将来、大金を稼げる少数の人と生活を支えるだけで精一杯の多数の人に分かれる。非正規雇用はさらに増える。
・日本でしか暮らせない人はきつい。自分が「2ちゃんねる」の裁判になっても案外強気でいられたのは、「困ったら日本を出てほかの国へ行けばいいや」と思っていたからだ。
・海外で仕事をするから学歴なんて必要ないというのは、大きな勘違い。海外に出たければなおさら学歴を軽視してはいけない。
・これから人口が減少して高齢化が進むのだから、ローンを組んで家を買うのは、郊外の土地や家などの場合、損をする可能性が高い。
・楽をして稼ぐためにプログラミングのスキルを身につけることは有効だ。プログラミングを早く自分のものにするコツは、すぐれたものを真似すること。分からないことは詳しい人に聞くこと。独学で頑張ろうとすると、大事なことと本当はどうでもよいこととの区別がつかず、最短の道を通れない。
・プログラミングはググってコピペすればできる。(グーグルで検索して必要事項を調べ、すぐれたプログラムをコピーして自分のプログラムに貼り付ければ出来上がり、という意味か?)
・年金は払っておいた方が得である。
・新卒で入った会社には三年間いた方がよい。
・「起業して一発当てよう」はだいたい失敗する。起業して一番難しいのは、あなたにお金を払って何かを頼もうという人と、いかにして出会うかということだ。組織にいるあいだに、そのことをじっくり学ぶべきだ。
・仕事を選ぶ場合、給料の多い少ないも大事だが、人から感謝される仕事かどうかという基準で選んだ方が、仕事のストレスが減って楽に生きられるかもしれない。
・世の中にはコンビニの仕事のように、スキルのたまらない仕事もある。
・若い人が選挙に行っても政治は変えられない。20~39歳の人全員が投票に行っても、40歳以上の人の多くが投票するなら、そちらの意見が尊重される。―――

(つづく)

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ウクライナ戦争に思う3 [思うこと]

▼ロシア軍がウクライナに侵攻し、首都キーウを攻略しようとしたが果たせず、キーウ占領をあきらめるまでの1か月が、この戦争の第一段階である。
 第二段階はウクライナの東部と南部の占領と奪還をめぐって戦闘が行われた時期であり、ウクライナ軍はハルキウ州やヘルソン州の領土の奪還で顕著な成果を上げたが、基本的には一進一退の膠着状態にあったといえるだろう。昨年の4月にロシア軍がキーウ攻略から「転進」して以来、今年の5月までの1年2か月ほどがこの段階であり、ウクライナ軍はこの間に大規模な反転攻勢の準備を続け、ロシア軍はそれを迎え撃つための陣地の構築に全力を注いだ。
 そして今年の6月になり、戦争は第三段階に入った。ウクライナ軍は、米国やNATO諸国から供与された新型戦車や武器弾薬を投入して大規模な反転攻勢を四方面で仕掛け、ロシア軍は頑強に抵抗している。ロシア軍は塹壕を掘り、その前方に地雷を埋め、コンクリート製の障害物を置き、砲兵力を配置してウクライナ軍の進軍を止めようとする。空からは戦闘ヘリがウクライナ軍の戦車をロケットで攻撃し、多大な損害を強いている。
 ウクライナ軍は大規模な反転攻勢に入ったものの、ロシア軍の堅い守りを攻めあぐね、敵陣を突破できずにいるという報道が流れた。ゼレンスキーは、「(反転攻勢の進行が)望んでいたよりも遅い。ハリウッド映画のような結果を期待している人もいるが、そうはいかない。人の命がかかっている」と語った。
 大規模反転攻勢の始まった直後の6月6日の夜、ヘルソン州のカホフカ水力発電所が何者かによって爆破され、溜められていた水が流出し、広大な下流域の街々を水没させた。

▼ウクライナ戦争が始まってから、TVの報道番組は毎日のように戦況を伝え、その解説をしてくれる。番組に登場し解説してくれる人たち、たとえば防衛省防衛研究所の兵頭慎治、高橋杉雄、東大先端科学技術研の小泉悠、その他自衛隊OBで元陸将クラスの人たちのおかげで、筆者の戦争に関する戦術レベルの知識と理解は、いくらか進んだようである。(自衛隊関係者というとすぐに「田母神俊雄」という名前が浮かび、ああいう「無教養な歴史修正主義者」が幹部を務める自衛隊という組織は、どうなっているのだろうかと、筆者はいぶかしく思っていた。しかしいま番組に登場する面々は、いずれも教養豊かで説明に説得力があり、聴いていて感心する場合が多い。)
 彼らの解説によれば、ウクライナの東部から南部にかけてのロシアの回廊を、どこかで切断するためにウクライナ軍は攻撃を仕掛けている。ロシア軍は時間をかけて陣地を構築しており、ウクライナ軍は多くの兵力を投入し、多大な損害を出しているが、大きな成果は上げていない。一般に攻撃側は守備側の3倍の兵力を必要とするとされているから、基礎体力に劣るウクライナ軍はその面でも厳しい条件下にある。
 しかしウクライナ軍は、まだ戦線に主力部隊を投入していない。各方面で戦いながら弱い部分を探り、そこに主力を投入することになるだろう。陣地突破は大消耗戦となるが、避けて通れない道である―――。

 戦争の戦術や兵器について、サッカーやチェスの戦術のように論じることに引っかかるものを感じる人はいるだろう。戦争というゲームの裏には人間の生死が貼りついているのだから、引っかかるものを感じるのは当然なのだが、しかしそれは「次元」の異なる問題として、触れられることはない。
 人間の生命の問題を、戦争にいかにして勝つかを考える場に持ち出すのは、関係者を当惑させるだけであろう。将軍たちは、自分は味方の兵士の生命の損害がもっとも少なく、敵軍への打撃を最大にする作戦をとるつもりだと答えることだろう。人間の生命の問題は、ゲームの外側で議論する問題であり、戦争というゲームに入った以上、早期に勝利することによって人的被害を最少に抑える、としか言えないのではなかろうか。

▼「西部戦線異状なし」という映画を、ネットフリックスで観た。筆者はレマルクの原作を読んだことはなく、ただ主人公が戦死した日の司令部報告に、「西部戦線異状なし。報告すべき件なし」と書かれていたという題名の由来だけを、昔どこかで聞いていた。
 ウクライナで戦争が起きなければ、それは筆者の中で遠い昔の有名な反戦小説であり続けたかもしれない。だが現実にウクライナで戦争が起き、反転攻勢という名の「大消耗戦」がこれから本格化しようとしているとき、眼をそむけずに観る義務があるのではないか―――。気分としてはあまり乗り気ではなかったのだが、半ば以上そういった義務感に動かされ、昨年(2022年)ネットフリックスが制作したドイツ映画「西部戦線異状なし」(監督:エドワード・ベルガー)を、観ることにしたのである。

 主人公パウルは18歳の学生だが、祖国のために闘おうと、学友たちと志願して兵士になる。西部戦線に配属された主人公たち歩兵は、砲弾銃弾の飛び交う中、突撃の命令の下、泥水の大地を這いまわったり、敵の塹壕に飛びこんで殺し合ったりという戦闘場面が描かれる。仲間のある者は死に、ある者は下肢を失うが、パウルはなんとか生き延びる。
 映画は戦闘場面や野戦病院、兵士の日常生活などをリアルに描き出すことで、戦争の恐怖や残酷さ、無益さ、兵士たちの苦痛や絶望を浮かび上がらせる。
停戦交渉がなんとかまとまり、兵士たちは喜ぶが、ドイツ軍の前線の指揮官は、停戦時間の来る前に敵軍に突撃すると演説し、反対の声を上げた兵士はその場で射殺された。パウルは突撃し、敵の塹壕の中で肉弾戦の末、胸を刺されて死ぬ。
 映画が終わり、最後に次のように白抜きの文字で書かれた黒い画面が出る。「1914年10月の戦闘開始からほどなくして塹壕戦で膠着、1918年11月の終戦まで前線はほぼ動かなかった。わずか数百メートルの陣地を得るため、300万人以上の兵士が死亡、第一次世界大戦では約1700万人が命を落とした。」

 優れた作品だと思った。重い気分があとに残った。

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ウクライナ戦争に思う2 [思うこと]

▼ウクライナ戦争について、大方の予想を裏切る展開がこれまで幾度かあったように思う。
 先ず当初、昨年2月24日にロシア軍が攻め込んだあと、世界はウクライナ政権が倒れることを予想した。プーチンは、首都キーウを占領し、ゼレンスキー政権を傀儡政権に替えることは容易であると考えていたし、米国もゼレンスキーに亡命を勧めた。
 E.ルトワックも、「ウクライナ軍による組織的な抵抗は、あと数日も続かないだろう。だがプーチンが展開する十数万人程度のロシア軍の兵力では、首都キエフや一部の都市を占領できても、全土を掌握するにはロシア軍の総兵力の半分にあたる50万人規模を投入する必要がある。完全な制圧は現実問題として不可能に見える」と語り、当面のロシア軍のウクライナ占領は避けられないと考えていた。(2022/2/25の産経新聞のインタビュー記事)。
 ところがゼレンスキーは亡命せず、ウクライナ人の抵抗の士気は高く、ウクライナ軍はよく戦い、世界の予想に反して首都キーウは占領されなかった。
 首都キーウの占領に向かったロシア軍を阻んだものは、もちろんウクライナ軍の抵抗でありロシア軍の作戦の誤りだったが、もう一つの要因として秦郁彦が強調するのは、「泥将軍(ラスプティツァ)」である。ウクライナの黒土は、コップ一杯の水が浸み込むと一夜にして泥土に変わる、と言われている。プーチンの侵攻のゴーサインがなぜか遅れたために、ロシアの戦車や軍用トラックが進行を開始したときには気温が上がり、凍土は一転して水を含んだ泥土に変わっていたというのだ。
 たしかに筆者も、ウクライナに侵攻したロシア軍の車列が延々と続く映像を、TVで観た記憶がある。こんなに沢山の戦車やトラックを相手にするのでは、ウクライナ軍もたいへんだな、というのが軍事知識ゼロの素人のその時の感想だったのだが、そうではなかったのだ。
 「本来だと戦車隊は横一列に展開して守備側の陣地を突破し」、そのあと歩兵が敵を排除して敵陣を占領する手順となるが、泥土状態の中では舗装された幹線道路しか使えず、そのため渋滞を引き起こした情景が、縦一列で延々と続く車列の映像なのだという。(『ウクライナ戦争の軍事分析』秦郁彦 2023年6月 新潮新書)
 3月10日、ウクライナ軍はキーウ近郊のプロバルイでロシアの戦車隊を待ち伏せし、急襲、撃破した。先頭と最後尾の戦車をまず炎上させ、動けなくなった戦車群を携帯ミサイルや支援の戦闘爆撃機で次々に仕留め、ロシア軍は壊滅的な損害を出して退却した。
 3月25日、ロシア国防省は、「第一段階の作戦は終了した。次は東部のドンバス地区へ兵力を集中する予定」と発表し、キーウ占領をめざしたロシア軍は一斉に撤退を開始した。プーチンの言う「特別軍事作戦」を始めて1か月後に、ロシア軍は所期の目的を達成できぬまま、「転進」することになったのである。

▼ウクライナの東部から南部にかけて、ルガンスク、ドネツク、ザポリージャ、ヘルソンの4州が存在する。東部に「転進」したロシア軍は、ルガンスク州の占領地を全域に拡げ、ドネツク州ではアゾフ海に面するマリウポリの市街地を、激戦の末に占領した。しかしウクライナ軍と市民約2千人はアゾフスタリ製鉄所の地下シェルターに立てこもって抗戦を続け、彼らが投降したのは5月半ばになってからだった。
 ロシア軍はマリウポリの占領によって、ウクライナ東部とクリミア半島を繋ぐ回廊を確保した。
 ウクライナ軍への米国とNATO諸国の軍事援助が6月ぐらいから実戦に使われはじめ、米国のハイマース(高機動ロケット砲システム)は、ピンポイントでロシア軍の現地司令部や弾薬庫などを攻撃し、成果を上げた。
 9月6日、ウクライナ軍はドネツク州の北に隣接するハルキウ州で反転攻勢を開始。南部のヘルソン州での戦闘を予想していたロシア軍は、不意を突かれてパニックに陥り、大量の戦車や装備品を残して敗走した。ウクライナ軍は、わずか5日間でハルキウ州の2500平方キロメートルを奪還した。
 ウクライナ軍はその後も手を休めず東進し、10月1日にはドネツク州の北にある鉄道の要衝リマンを解放した。
 11月11日、ロシア軍は南部ヘルソン州の州都ヘルソンを含む、ドニプロ川右岸から撤退した。

 ロシア軍が東部に「転進」した後の戦況は、ウクライナ軍のハルキウ州での目覚ましい勝利などもあったが、基本的には膠着状態にあったということらしい。ロシア軍が「火力重視の伝統に立ち返り、集中砲撃でウクライナ軍の陣地を徹底的に叩いたのち前進する堅実な戦法」(秦郁彦)を採るようになると、ものを言うのは砲兵火力や戦車など物量の大きさになる。ウクライナ軍には旧式のソ連製の戦車しかなく、その面で圧倒的に不利と見られていた。
 ゼレンスキーは武器の提供、なかんづく新型戦車の提供を米国やNATO諸国に強く求め、米欧諸国の首脳はドイツ製の「レオパルト2」をはじめとする新型の戦車を提供する決断をする。しかし米欧諸国が戦車を提供する決断をしても、ウクライナの兵士がその操縦に習熟し、実戦で成果を上げるようになるには時間が必要である。ウクライナの戦力として新型戦車が活躍するのは、冬を越し、春の泥土が固まる2023年の5月ないし6月頃になるのではないか、と言われた。

 一方プーチンは、9月21日に予備役兵32万人の動員を発令した。ロシア国内の動揺が危惧されたが、軍の態勢を立て直すためには動員をかけるしかなかった。だが新たに招集した兵士を訓練し、実戦に投入するためには、数カ月かかるだろうと言われた。
 プーチンはまた、ロシア軍が占領しているルガンスク、ドネツク、ザポリージャ、ヘルソンの4州を、ロシア領に編入する大統領令を9月30日に公布した。

(つづく)

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ウクライナ戦争に思う1 [思うこと]

▼「将軍たちはいつも、一つ前の戦争に勝とうと全力で準備している」という警句を、何度か目にしたことがある。誰の言葉なのか、チャーチルとか、ロイドジョージとかの名前が上がっているようだが、引用者たちは明記していなかったので、筆者はいまだに確かなことは知らない。
 だが言葉の意味は明瞭だ。戦争技術の進歩は日進月歩であり、戦争の形も大きく変わってきているのに、将軍たちの頭の中だけは変わらず、「一つ前の戦争」のイメージしかないという意味だろう。

 ウクライナ戦争は奇妙な戦争である。それが奇妙である理由のひとつは、筆者はこのブログで触れたことがあるが、西側の指導者たちが、この戦争が第二次世界大戦のように世界に拡がることを極度に恐れ、細心の注意を払うところから来ている。第三次世界大戦が起これば、それは核兵器を使用しての世界戦争であり、それは何があっても避けなければならない。
 また西側の指導者たちの頭には、「一つ前の戦争」である第二次世界大戦の記憶ばかりか、1世紀以上前の第一次世界大戦の教訓も蘇っていたはずだ。バルカン半島で発生した暗殺事件が、誰も予期せぬ形で燃え拡がり、ヨーロッパ世界とその植民地を巻き込んで4年以上続き、1千万人近い戦死者を出した歴史の記憶が、彼らを慎重にさせた。
 だから彼らはウクライナに攻め込んだロシアを非難し、経済的に締め付ける一方で、戦争が拡大しないように、拡大の口実をロシアに与えないように、ウクライナの求める援助についても慎重に中身を検討し、抑制的に(恐る恐る)対応してきたといえる。
 一方ロシアの指導者たちは、西側の指導者たちの心配や慎重さを奇貨とし、また核戦争を恐れる気持ちに突け込んで、自分たちは核兵器を保有しており、必要とされる事態となればそれを使用する決意があることを、ことあるごとにアピールしてきた。
 このような思惑の微妙な差異や心理的駆け引きの結果、ロシア軍はウクライナを首都キーウも含めて攻撃できるが、ウクライナ軍はロシア領を攻撃しない、いわんやモスクワを攻撃してはならないとする暗黙の「約束事」が出来上がっているように見える。
 関係諸国の指導者の間のこの奇妙な暗黙の「約束事」は、ウクライナの領土の侵略戦争を現に行っているプーチンが、ロシアの行動は「祖国防衛」のための「特別軍事作戦」だと言い張る奇妙さとともに、この戦争の特徴を形成している。

▼ウクライナ戦争の奇妙さの二つ目には、新しさと古さが混在している点が挙げられるだろう。新しさとは、なによりも通信技術の革命的な発展である。
 ウクライナはロシアの侵攻を受けて、すぐにイーロン・マスクに連絡を取り、彼の援助で人工衛星通信システム(スターリンク)を利用できるようになった。これによってウクライナ国内での通信連絡が、ロシアの妨害を受けずにできるだけでなく、「ジャベリン」などの兵器を活用してロシアの戦車や装甲車両を攻撃することも可能になった。
 ドローンや無人機が新しい武器として戦争に初めて登場しているが、これらも通信技術の発展と無縁ではない。
 通信技術の革命的な発展はまた、一般の人びとがこの技術を活用して戦争に直接関わることを可能にした。
 30年前の湾岸戦争のときも、一般の人びとがTVの前で戦争をまるでTVゲームのように観戦することが話題になったが、当時と現在では情報量がまるで違う。当時世界の人びとが観ていたのは、CNNの従軍カメラマンが撮ったオフィシャルな映像だったが、現在はウクライナ、ロシア両政府のマスメディアに対する公式発表以外に、インターネット上に膨大な情報が飛び交っている。一般の人びとがスマホで撮り、ネットにアップロードした映像も多い。
 ウクライナの政治指導者もロシアの指導者も(プーチンはSNSをやらないらしいが)ネットを通じて声明を公表し、世界に直接働きかけている。
 それだけではない。現場で撮られた写真や動画がアップされ、それがどこで撮られたものかをグーグルマップを使って割り出すことで、戦争全体の状況が一目瞭然となっているらしい。

▼ウクライナ戦争の「古さ」の第一は、戦争のそもそもの性格が、プーチンの領土拡大欲求によって始められた「古典的な侵略戦争」だということである。プーチンの頭の中ではウクライナはロシアの属国であり、歴史的にそうあるべきであり、その関係をより明瞭にすることで、ソ連の崩壊以来貶められてきたロシアを、再び偉大な国として復活させることができると考えたのだろう。
 古さの第二は、E・ルトワックが指摘していることだが、ウクライナ戦争は形態としては「18世紀の戦争」に似ている、という点である。
 第一次世界大戦も第二次世界大戦も「総力戦」であり、敵対する国家同士は戦場で武器を手に戦うだけでなく、相手の息の根を止めるために、国家の総力を挙げてあらゆる手段を行使した。しかしウクライナ戦争では、互いに自制して20世紀型の「総力戦」に陥ることを避けようとしているように見える。
 ロシアの天然ガスは、ウクライナの国土を通るパイプを通じてドイツやイタリアに送られるが、それは従前通り行われているし、ウクライナの港から穀物を船に積んで輸出することも、ロシアが嫌がらせをしつつも一応継続されている。
 ロシアは米国やNATO諸国がウクライナに武器を供与することを強く非難するが、ウクライナへの輸送の途中でそれを阻止しようとしたりはしない。つまり、戦争の様相は「限定的な紛争」にとどまっているのであり、それは18世紀のヨーロッパに見られた戦争の形だ、というわけである。
 ルトワックはさらに続けて言う。「問題なのは、18世紀型の戦争は長期にわたって続きがちなことだ」。(産経新聞2023/5/17)

(つづく)

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組織モデルの革新 [思うこと]

▼いつごろからか正確な記憶はないが、「フィッシングメール」が筆者のところに届くようになった。
 「このたびご本人様のご利用かどうかを確認させていただきたいお取引がありましたので、まことに勝手ながらカードのご利用を一部制限させていただきました。つきましては、以下へアクセスの上、カードのご利用確認にご協力をお願いします」とか、「当社では犯罪収益移転防止法に基づき、お取引を行う目的等を確認させていただいております。お客さまの取引についていくつか質問がございますので、下記のリンクにアクセスし、ご回答ください」といった内容のメールである。
 中にはカードの利用日時や利用場所、利用金額を具体的に挙げ、「ご利用の覚えのない場合は、下記により」手続きをするように、と言ってくるケースもある。
 「迷惑メール」に指定して「受信拒否リスト」に登録したりしてみたが、効果はなかった。どうやら送付元のアドレスを、機械的に毎回変更することが可能らしく、アドレスが1字でも変われば、筆者のパソコンは拒否せず受け取るのである。
 送り主は以前は「アマゾン」や「楽天」を名乗り、その後クレジットカードの会社や銀行、宅配便業者やNHKなどを騙っている。
 初めの頃はときどき舞い込む程度だったのだが、最近では毎日十数件、日によっては二十件を超えるメールが送られてくるようになった。

 筆者の感想を言えば、まず、「名簿」や「アドレス」の地下マーケットがあると聞いていたが、自分のアドレスもそこで売買されているのだな、ということだった。
 また、メールの送り主はあまり頭の働きの良い人間ではなく、この仕事に惰性で関わるばかりで、自分で工夫しようとする意欲に欠けている、とも思った。いかにもっともらしい内容であっても、同じ文面が一度に十数件も届いたら、誰も真面目に扱うはずがないという、最低限の判断力もないのだ。というよりも、おそらく彼の所属する組織の中で、指示されたことを何も考えずに、ただ機械的に繰り返しているだけなのだろう。

▼上の「フィッシングメール」の話は、犯罪組織のくだらなさ、そこでの活動のつまらなさを反映しているように見える。「オレオレ詐欺」や「還付金詐欺」、警官や弁護士、銀行員やらが登場する「劇場型詐欺」なども含め、21世紀の日本に現れたいわゆる「特殊詐欺」は、現れた初めのうちこそ新鮮さがあり、話題にもなった。しかし、その後も繰り返される愚かな「被害」のケースを山のように聞かされる中で、世の関心はずいぶん薄れてしまった。
 詐欺という行為は、もう少し頭を使ってストーリーを考え、スリルを感じながら実行する、“手作り感”のある犯罪ではなかったか? 機械的に大量の電話やメールを送り付け、例外的に生じた年寄りの“うっかりミス”に突けこむばかりで、なんら目新しさのないやり口は、およそつまらない―――。
 そんな風に感じていたのだが、今年1~2月にニュースとなった「ルフィ」騒動には、筆者の思い込みを覆す斬新さがあり、興味を持った。

▼今年の1月から2月にかけて、全国で発生している強盗事件が話題となり、中でも東京都狛江市での強盗事件が、90歳の老女が殴り殺されたこともあって、大きなニュースとなった。
 そしてそれらの強盗事件に関係するとみられる男たちが、フィリピンの入国管理施設に収容されていて、彼らは収容されている身でありながら、ケータイやらパソコンやらを施設内で自由に使え、強盗の指示もそこから出していたと、大きく報道された。強盗の指示役は「ルフィ」の名で呼ばれ、「ルフィ」もその入管施設の中の誰かだろう、いや、特定の誰かではなく、指示を出す時に指示者はそう名乗ったのだろうなどと、ワイドショーは賑やかだった。
 そのときニュースで解説された事件の構図は、捜査当局が流したものだったのだろうが、次のようなものだった。
 強盗を企画した人間は、情報を収集し、実行役を集め、指示を出すが、強盗行為は自分では行わない。強盗の実行役は、インターネットの「闇サイト」で1日百万円などと高額報酬を謳って集める。「闇サイト」に応募してきた人間は、本人情報だけでなく家族関係、親族関係までしっかり把握され、裏切れないように管理される。
 強盗を現場で実行する者は、単に指示されたように動くだけであり、強盗を主体的に行っているという意識が薄いから、罪の意識も薄いだろう。強盗を企画した人間にとって強盗の実行者たちは、自分と結びつくなんの関わりもない使い捨ての駒である。実行役に指示を与えることと、実行役から強奪した金品を受けとること。その接点に注意を集中し、無事に行えるなら、強盗はより安全な仕事となる。―――
 この組織モデルを、彼らは「オレオレ詐欺」から学んだのだろう。「オレオレ詐欺」では電話を掛ける「掛け子」と現金を受け取る「受け子」が、使い捨ての駒であるが、危険性が高く苦労の多い実行役を自分から切り離すという組織モデルを創り出すことにより、首謀者は「特殊詐欺」というジャンルを打ち立てたのだ。

▼日本の経済界でも組織モデル上の革新が、少しずつ見られるようになってきたように思う。
 「終身雇用」、「年功序列」、企業のメンバーとなり、その企業文化を身につけることが何よりも大切とされてきた日本の雇用慣行・雇用制度にとって、それが高度成長期に大成功した組織モデルであったからこそ、変えることは困難だった。しかしすべての企業活動がデジタル化をベースに行われる21世紀に、必要な能力を持った人材を雇用する上で、従来の日本の雇用慣行・雇用制度は大きな制約となる。年齢が若くても、外国人でも、求める能力を持った人材を高給で世界中から集める必要があるのに、それが出来ず、あいかわらず「年功序列」を基本とするようでは、世界で取り残されるばかりである。「年功」は21世紀の現代では、ただ新知識・新技術から遠いことを意味するばかりなのだ。
 バブル崩壊後、日本経済が一向に成長せず、世界で競争力を低下させていった背景には、「デフレ」のもたらした消極経営の要素が大きかったが、それだけでなく、「日本的経営」が21世紀の変化の激しい環境に適応できないという問題があったと、筆者は考える。日本においてIT化の進行が遅れた理由は、日本の経営組織モデルの革新が進まなかった理由と同根なのだ。

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日本の1970~90年代とサブカルチャー6 [思うこと]

▼1995年に起きた二つの大事件によって、人びとは「80年代」が本当に終わったことを知らされた。
 第一の事件は、1月17日早朝の阪神淡路大震災の発生である。マグニチュード7.3の大地震は高速道路を横倒しにし、生活インフラを切断、火災も発生した結果、6千人を超える死者が出た。日本人は、日本が便利で効率的で安全な国だと考えてきたのだが、そうとは言えない現実を突きつけられたのである。
 第二の事件は、3月20日に発生した地下鉄サリン事件である。乗客乗員14人が死亡し、負傷者は6千人以上にのぼった。オウム真理教団によって引き起こされたこの事件は、化学兵器が一般市民に向けて使われた類を見ない犯行として、世界に衝撃を与えた。
 実行犯の多くが理系の高学歴の若者たちだったことも、波紋を広げた。この国の若者の教育は、どうなっているのか? 彼らはこの国の経済的な繁栄の中で、かえって虚無感にとらえられ、そこを教団につけこまれたのか?
 TVは連日、オウム真理教関連のニュースでいっぱいだった。
 麻原彰晃こと松本智津夫は、山梨県上九一色村の教団施設内に潜んでいたところを、5月16日に逮捕された。

 90年代は1995年を間にはさんで、前半と後半ではまったく空気感の違う社会となったと、番組は言う。後半は、今にいたる長い暗い時代のはじまりだった。

▼90年代を通じて、株価は小さな上げ下げを繰り返しつつ、下がり続けた。不動産の価格も下落を続け、底の見えない状態が続いた。
 日本人の賃金が1997年をピークにその後2020年まで下がり続けているのは、日本経済がほとんど伸びなかったことが大きな原因であろう。日本の生産力(実質GDP)の90年代の伸び率は、年率にして0.65%に過ぎない。
 求人倍率が低迷し、94年の流行語大賞に選ばれたのは「就職氷河期」だった。「フリーター」が職業選択の自由を意味する時代は終わり、「安定志向」、「内向き」などの言葉で、揺れる若者の心が語られた。
 日本経済を立て直すために「グローバル・スタンダード」が盛んに言われ、「ガバナンス」やら「コンプライアンス」やら、次々にコトバが輸入された。
 だが佐々木敦は言う。「世界の中の日本、世界に出て行く日本、というモードから、世界と無関係なというか、世界は世界、日本は日本、という感じになってきた。現状をなんとか肯定したい。そういう感覚が随所に出てきた―――」。

▼金融機関の破綻が相次ぎ、失業者がはじめて300万人を突破したこの時代を象徴するものとして、番組は2000年に公開された映画「バトルロワイアル」(監督:深作欣二)を取り上げる。
 離島に連れてこられた1クラスの中学生たちに向かって、元担任教師のキタノ(北野武)が、「新世紀教育改革法」、別名「バトルロワイアル法」について説明する。「……この国はもう、ダメになってしまいました。失業者が街にあふれ、不登校児も増加、少年犯罪が多発するこの国で、エラい人たちが相談してこの法律を作りました。……今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます。最後の一人になるまで。反則はありません」。そしてこうも言う。「これだけは覚えておけ。人生はゲームだ。闘って生き残る、価値ある大人になりましょう……」。
 主人公の中学生は、「バトルロワイアル」から脱出しようと団結を求めるが、クラスメートたちは生き残るために互いに殺し合う。―――
 筆者はこの映画を観ていないので、なんとも言いかねるのだが、外国では新しいカルト映画として支持を集めたらしい。
 日本映画に詳しい米国の学者は、次のように評価する。
「この映画は90年代につくられたが、90年代の映画らしくない。高齢になった深作欣二が撮っているのに、若い反抗的な監督の作品のようだ。抵抗、怒り、非人道的なシステムに対する叫び。深作は60年代の感性なのです。」
 さらに彼はこの映画に、「社会は競争だからキミは負けだ」、「自分の身は自分で守りなさい」という「新自由主義」の主張に対する、反対のメッセージを読み込む。
 しかし番組は、この映画が日本ではどういう評判だったのかについて、何も触れていない。日本の若者たちは深作欣二の「抵抗、怒り、非人道的なシステムに対する叫び」に、熱く反応したのだろうか?
残念ながら筆者には、どうもそのようには思えない。―――

▼いま筆者自身の90年代を振り返ると、ほとんど思い出すこともないことに驚く。記録をもとに記憶を掘り起こしていけば、その時自分がどういう仕事をしていて、上手くいっていたのかどうか、家族はどうしていたのかなど、なんとか語ることはできるかもしれない。しかし鮮やかなイメージとして浮かんでくるものは、ほとんど無いに等しい。
 これは筆者の感受性が年齢とともに鈍くなっていたからであろうし、世の中の動きに反応するより、日常の雑用に追われ、対応することで精いっぱいだったということの顕われでもあるのだろう。
 90年代に自分はどういう映画を観たか、思い出そうとしても、70~80年代のようにはっきりと答えることができない。子どもを連れて「ホームアローン2」(1992年)や「ダイハード3」(1995年)を観たことや、周防正行の「シコふんじゃった」(1993年)、「Shall we ダンス?」(1996年)を観に行った記憶はある。また、「シンドラーのリスト」(1994年 監督:S,スピルバーグ)、「ショーシャンクの空に」(1994年 監督:フランク・ダラボン)、「フォレスト・ガンプ」(1995年 監督:ロバート・ゼメキス)なども観ている。だが答えられるのは、その程度なのだ。
 90年代の歌の記憶は、さらに乏しい。なかにし礼が、「昭和の時代とともに日本の歌謡曲は終わった」と言ったように、日本の歌の「変質」という事情が大きかったと思うが、ふと口ずさめるような90年代の歌を、筆者はひとつも持っていない。

 95年に「Windows95」が発売され、本格的なインターネット時代が始まったのだが、まだまだ日本社会は、ネット時代のあわただしい変化から遠かったようである。年配者や高齢者をあわてさせない変化のマイルドな社会とは、この時代が日本の停滞の時代だったことを照らし出しているのかもしれない。

▼1960年代から90年代までの40年間を駆け足で見てきた番組は、締めくくりのナレーションで次のように語る。
 ―――(40年間を振り返って)この間ずっと忘れていたのは、あの言葉、闘争の時代に発せられたあの言葉に応えることではなかったのだろうか?
 「……僕がしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく、他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。」(『赤ずきんちゃん気をつけて』庄司薫)
 戦後、教えられた豊かさのため、ひたすら走る競争に夢中になってきた日本。しかしそこからはみ出した感受性は、あちこちに溢れていた。その名づけがたい精神の運動が日本のサブカルチャーの源泉だったとしたら、のびやかで自由な心が、思いがけない形で他者との対話の回路をいま開いている。―――
 番組は、日本の映画やアニメ、マンガなどのサブカルチャーが、世界で人気を得ていることに、もっと目を向けるべきだと主張する。
 日本の経済はあいかわらず低迷したままで、世界における経済力は低下しつつあるが、そのタイミングで世界は日本を評価しはじめた。「この皮肉な現象こそ考えるべきなのかもしれない」と。

 日本のアニメやマンガが世界で人気を集めていることは、もちろん悪いことではない。しかしそれだけだとするなら、そしてそのことに縋らなければならないのだとするなら、やはり淋しい。うつろいやすい世界の中で基礎的な力を保持し、敬愛されることの必要性は、これまでもこれからも変わらない。

(終)

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日本の1970~90年代とサブカルチャー5 [思うこと]

▼90年代の始まりは、昭和が終わり平成が始まる時期とほぼ同じであり、何か新しい時代が始まるのではないかと考えた人も、多かったようである。だが80年代のノリは、90年代に入ってもしばらく続いた。
 1990年に「ちびまる子ちゃん」のアニメが放送開始され、「……ピーヒャラ、ピーヒャラ、踊るポンポコリン!」の歌が街に流れ、街は活気にあふれていた。ティラミスやナタデココ、パンナコッタといったスウィーツが大衆的人気を呼んだのも、このころだった。
 1991年、きんさん・ぎんさんは100歳になった。「ちょっと働けばお金が入るでしょう。なんでもあるでしょ。なに不自由ない」と、カメラに向かって語っている。
 「ジュリアナ東京」が東京芝浦の倉庫を改造して造られ、毎夜ここに多くの若者たちが集まり、踊りまくった。女の子たちを車で送り迎えし、食事をご馳走してくれる便利な「アッシー」君や「メッシ―」君といった言葉がつくられたのも、このころだった。
 この年、篠山紀信の撮った宮沢りえの写真集『Santa Fe』が、155万部の売上となった。若い人気女優がヌード写真を披露することは、それまで考えられないことであり、80年代と少しも変わっていないという感じを人々に与えたと、番組は言う。

 「ソナチネ」(監督:北野武)という映画が、1993年に公開された。
 沖縄のヤクザ同士の争いに、手を貸してほしいと依頼されて出かけた小さな組の組長(北野武)と子分たちは、着いた早々に事務所を襲撃され、片田舎の海岸近くの家に避難する。青い海と白い砂浜に恵まれた片田舎の隠れ家で、北野たちは暇を持て余しながら、子どもにかえったかのように毎日遊んで過ごす。
 明るい陽射しの下、白い砂浜で子分二人が相撲をとることになるが、二人は「紙相撲」の相撲取りのまねをする。紙を人型に切って作った相撲取りの人形に、組み合った姿勢を取らせ、周りから振動を与えると人形が動き、どちらかが転んだり土俵の外に出ると負けという子供のゲームである。土俵の外で北野が砂浜を叩くと、子分二人は相撲取り人形の動きをし、見物人は大笑いする。―――
 番組のコメンテーター・佐々木敦はこの場面について、次のように言う。「ぽっかりした空気感は90年代的です。80年代の、皆が狂ったように踊りまくっていた祭りは終わったんだけど、それが終わった後ぽっかりとした空気が生まれてきて、でもまだ貧しくなっていないから、そこに時間だけはある。その時間をどうやって埋めるか。いろんな暇つぶしのような遊びが登場してきた……」

▼同じ1993年に、映画「月はどっちに出ている」(監督:崔洋一)が公開された。在日コリアンのタクシー運転手とフィリピン・パブで働く女性の恋愛を軸に、東京でたくましく生きるさまざまな人々の日常を、コミカルに描いた作品である。
 90年代、経済大国のイメージの日本に、多くの外国人が出稼ぎにやってきており、パブで働くフィリピン人の姿は、地方でもよく見られた。93年には、外国人技能実習制度も導入されている。そうした外国人が、映画の主要な登場人物として、はじめて現れたというわけである。
 道に迷ったタクシー運転手が、会社に電話を掛けて聞く。「自分はどこにいるんでありましょうか?」。電話を受けた社長は、「安藤さん、近くに何が見えますか」と訊き、指示を与える。
 あるときパジャマ姿の社長は運転手の電話に対し、「月はどっちに出ていますか?」と訊いた。
 画面には大きな丸い月と東京タワーが映し出され、運転手は電話ボックスの中から月を探し、答える。 「……東か西か、……南か北、であります。」「安藤さん、月に向かって走ってきてください。」
 ―――どこへ行けばいいのか、あれこそが90年代の空気なんですと、佐々木敦は言う。日本は、自分は、どこにいるのか。誰もが月を探していたのです。―――
 余談だが、この公衆電話から電話を掛けるシーンは、はからずも当時の日本が携帯電話の普及する前夜であったことを記録していて、興味深い。
 こういうシーンもあったと記憶する。二人の男が歩きながら、ケータイ電話で話をしている。カメラは交互に、二人の歩いている姿を映す。そのケータイ電話は、掌の中に収まるほど小さいものではなく、卓上電話ほどの大きなものである。二人は喋りつづけ、そのままホテルに入っていき、ロビーで顔を合わせて挨拶する―――。ケータイ電話というものが珍しかったからこそ監督はこの場面を取り入れ、また筆者の記憶にも残っているのだろう。

▼「だが、こちらの月は明るく輝いていた」と、番組は話題を転じる。
 1992年にマンガ「美少女戦士セーラームーン」が、TVでアニメ化された。中学2年生の主人公・月野うさぎが、黒猫ルナと出会ったことで、妖魔と戦うことになるというストーリーは、少女だけでなく大人の女性や男性の間でも人気を集めたようだ。きっかけさえあれば、だれもが変身できる。秘められた魔法のパワーは、まだ自分の中に眠っているだけという設定は、少女たちに生きる力を与えた、と番組は言う。
 筆者は残念ながら、それほど評判のアニメの話を耳にすることはなかったが、「月に代わってお仕置きよ!」のセリフは、どこかで聞いて知っていた。
 このTVアニメは1993年にはフランス、イタリア、スペインでも放送され、95年からは全米50局以上で放送された。

 「美少女戦士セーラームーン」は、日本のアニメが海外で人気を博す大きなステップであったらしい。アニメや漫画が、自動車や電化製品とともに、日本の象徴的アイコンとなりはじめていた。

(つづく)

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日本の70~90年代とサブカルチャー4 [思うこと]

▼80年代がどういう時代であったのか、筆者は自分が観た映画を書き並べることで、当時の社会の空気をどのように思い出せるものか、試してみた。以下は、記憶にしたがって書き出した映画リストを、公開年次別に整理したものである。(カッコ内は監督名)
 1980年 「旅芸人の記録」(テオ・アンゲロプロス)、「木靴の樹」(エットーレ・スコーラ)、  「遥かなる山の呼び声」(山田洋次)
  81年 「泥の河」(小栗康平)、「駅」(降旗康男)
  82年 「蒲田行進曲」(深作欣二)
  83年 「戦場のメリークリスマス」(大島渚)、「家族ゲーム」(森田芳光)、「東京裁判」(小林正樹)
  84年 「お葬式」(伊丹十三)、「伽耶子のために」(小栗康平)
  85年 「乱」(黒澤明)、「それから」(森田芳光)、「タンポポ」(伊丹十三)
  86年 「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(ジム・ジャームッシュ)
  87年 「マルサの女」(伊丹十三)、「プラトーン」(オリバー・ストーン)、「薔薇の名前」(ジャン=ジャック・アノー)
  88年 「となりのトトロ」(宮崎駿)、「ラストエンペラー」(ベルナルド・ベルトルッチ)、「芙蓉鎮」(謝晋)、「ベルリン・天使の詩」(ヴィム・ヴェンダース)
  89年 「ダイハード」(ジョン・マクティアナン)、「レインマン」(バリー・レヴィンソン)、  「赤いコーリャン」(チャン・イーモウ)、「黒い雨」(今村昌平)

 上のリストはいま記憶しているものを書き出したものだから、当然漏れはあるだろうし、
公開された年ではなく数年後にTVで観た「となりのトトロ」や「東京裁判」も含んでいる。観た本数がそれ以前に比べてかなり減っているが、仕事がそれなりに忙しくなったのと、筆者の職場が銀座から遠くなり、並木座にもめったに行かなくなったことが影響しているのだろう。
 洋画に日本の80年代が反映されているはずがないと考えるのは、一応は正しいのだが、例外もある。「ダイハード」はドイツ人リーダーに率いられた十数人のテロリスト集団が、ある高層ビルを占拠し、たまたま居合わせたブルース・ウィリス演じる主人公が独りで彼らと闘うアクション・ムービーだが、闘いの舞台となった高層ビルの名前は「ナカトミビル」。日本企業「ナカトミ商事」が開いたクリスマスパーティが、壮絶なる活劇の幕開けだった。目端の利くハリウッド映画が取り入れたこの設定は、当時の米国を席捲していた日本経済の勢いを、証明するものと言える。
 筆者個人は、上のリストの映画がインデクスとなって、当時の自分の生活が思い出されるのだが、映画自体に時代が反映されていたかと言えば、時代性の明らかな作品は多くないように見える。

▼NHK番組の「80年代」で取り上げられた映画のいくつかは、同時代の風俗や事件を素材としたものである。
 「私をスキーに連れてって」(監督:馬場康夫 1987年)は、空前のスキーブームを背景に、スキーに無邪気に興じる底抜けに明るくハッピーな若者たちを描いて、「時代の気分をそこに映し出そうとしていた」と番組は言う。
 「家族ゲーム」(監督:森田芳光 1983年)は、80年代の経済的繁栄の中で進行していた家族の変化を描き、「家族関係がもはやゲームにしかならない80年代の危うさを切り取っていた」と、番組は評価する。
 日航機事故で流行語になった「逆噴射」を題名に取り込んだ映画がつくられたり(「逆噴射家族」監督:石井聰互 1984年)、豊田商事事件を取り入れた「コミック雑誌なんていらない」(監督:滝田洋二郎 1986年)が撮られたりした。しかしその程度なのだ。
 番組が「戦場のメリークリスマス」(大島渚)を取り上げたので、どのように料理するのかと興味を持って見た。坂本龍一やデビッド・ボウイが重要な演技者として出演したこと、カンヌ映画祭のグランプリの有力候補と見られたが受賞を逃したこと、代わりに「楢山節考」(監督:今村昌平)がグランプリを受賞し、今村がびっくりしたこと、大島渚は感想を聞かれて、「戦場のメリークリスマスは進み過ぎていて、カンヌを越えてしまったようだ」と述べた、といったゴシップレベルの話ばかりで、時代との関連についての考察などまるでなかった。
 総じて80年代という時代性を刻印された映画は、多くないという印象である。

▼筆者が80年代と聞いて思い浮かべるのは、「ポストモダン」と呼ばれたさまざまな言説である。「差異」や「表層」といった言葉が意味ありげに使われ、ソシュールの言語学が参照され、共時的、通時的、シニフィアン、シニフィエなどフランス語由来の言葉がありがたい万能膏薬のように、あちこちに貼り付けられた文章が出回った。
 浅田彰の『構造と力』が、固い内容にもかかわらず異様な売れ行きを見せ、既成のアカデミズムのジャンルを軽やかに横断する言説や批評が流行し、「ニューアカ」と呼ばれた。記号論が万能のツールのように、もてはやされた。
 しかし筆者にとって、「ポストモダン」のお囃子はどこか不快であり、筆者の生活は、不動産業界を中心とする活況を遠くのお祭りのざわめきのように聞くばかりで、それ以前と変わりはなかった。
 1984年に、『金魂巻』(渡辺和博とタラコプロダクション)という本が出版された。世の中の職業人、業界人を「マル金」と「マルビ」に分けて、それぞれの衣服や靴、趣味や家庭環境、読書傾向などをもっともらしく記述したもので、「言えてる」「言えてる」と評判になった。筆者は、クソ面白くもない「ポストモダン」の議論を笑い飛ばす、80年代のクリーンヒット本だと、当時痛快に思った。

▼80年代を語る番組のナレーションが、月並みではあるがなかなか軽快でよく出来ていると思うので、ここに紹介する。
 「都市は希望にあふれ、情報空間となった街が人々の欲望を形づくり始めていた。消費社会の物語は膨らみ続け、人々を呑み込み、そしてある時、欲しいものが分からなくなっている自分に気づく。スクリーンに描かれていたのは、一見華やかに生きる80年代の人々が、実は消費のネットワークにからめとられている不安だった。」
 「学問さえファッションとして消費された80年代、多くの人が資本主義というゲームを楽しんでいるかのようだった。」
 「何かがおかしい、何かがズレている。時に頭をかすめる違和感を振り払うようにして、人々は夢を追い続けた。」
 「巨大な流れに、誰もが巻き込まれ、流されていった。誰もがこのままでよいはずがないと不安を抱え、しかしそれでも踊り続けた。」―――

 コメンテーターとして番組に顔を出す佐々木敦は、「80年代」について次のように言う。
 「これは夢かも知れないと、皆うすうす思っているんだけど、なぜか覚めないから、もしかしたらこれは夢じゃないのではないか、たとえ夢だとしてもまだまだ続くんだろうなと思っていたら、チョキン! あ、眼が覚めた……」

 80年代にコピーライターから作家に転進し、今は日本大学理事長をしている林真理子は、80年代を「いい時代だったとはっきり言える」という。「80年代を覚えている人たちが、あの熱狂をちゃんと形にしていけばいいのです。バカなことをしたとか軽薄だとか、私はまったく思っていません。」

(つづく)

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日本の1970~90年代とサブカルチャー3 [思うこと]

▼日本の80年代について番組がどのように語り、どのように批評したかを、見ていくことにする。
 
 日本の80年代とは、「経済大国」としての存在感を増した時代だった。
 1980年に日本の自動車生産台数は、世界一となった。その前年(1979年)には日本の終身雇用、年功序列制など「日本的経営」を高く評価した『ジャパン アズ ナンバーワン』がアメリカの社会学者によって出版され、ベストセラーになっていた。
 日本はいつのまにか貧しい敗戦国から、世界有数の豊かな国になっていた。世界の国々のTVは、日本の成功の秘密を知ろうと「日本特集」を組み、日本人はこの状況に、晴れがましさとともに戸惑いを感じていた。
 細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一のバンド「Yellow Magic Orchestra(YMO)」の電子音によるサウンドは、テクノポップと呼ばれ、異彩を放った。70年代末に欧米で人気を得て、日本に逆輸入するような形でブレイクした。
 「コンピュータと戯れるような表現スタイル。無機的なテクノロジーのサウンドが、奇しくも日本経済の記号と重なる。YMOという表現実験が世界を駆け巡ることで、80年代日本のアイデンティティが、不思議な形であぶり出された」と番組は述べる。優れた技術を持った日本企業が世界に進出し、日本製品が世界を席捲していくことと、YMOの最先端のイメージが重なって受け止められた。
 田中康夫の小説『なんとなくクリスタル』(1980年)が評判になった。東京に暮らす若者たちの、華やかだが少しけだるい日常を描いた作品だが、流行のブランド名やレストラン名が頻出し、それらに442個の註が付けられているという前代未聞の小説だった。「いつのまにか消費の記号で埋め尽くされていた80年代の東京」、「実体と虚構の境目を見失いつつある国際都市・東京」の一断面がそこにあった、と番組は言う。
 消費のスピードが加速度を増していた80年代は、空前の広告ブームだった。商品の機能を宣伝するのではなく、広告自体が作品であるかのようなユニークな広告が、街にあふれた。「おしりだって洗ってほしい」(1982)、「おいしい生活」(1982)、「不思議、大好き」(1982)、「ほしいものが、ほしいわ」(1988)といったコピーを、番組は80年代的コピーの例として挙げる。
 そして商品自体を宣伝するのではなく、ライフスタイルを表現するようなコピー、今より少し先にある、わくわくするような生活を垣間見せてくれるようなコピー、―――80年代の広告は人々の無意識の欲望に訴えかけた、と説明する。

▼裏方だったコピーライターやCMディレクターが次々とメディアに登場し、スターとなった。そして彼らを使い、時代の空気を創り出した仕掛け人の代表は、西武の堤清二とその盟友・増田通二だった。
 1973年に渋谷パルコが開店し、「区役所通り」が「公園通り」に改名したころから、渋谷は文化の発信地として急速に変化していった。堤たちは美術館を創って現代美術を紹介したり、また渋谷系サブカルチャー雑誌「ビックリハウス」を発行するなど、さまざまな文化事業を展開し、「セゾン文化」という言葉も生まれた。番組が広告ブームの例に挙げたうち、「おいしい生活」、「不思議、大好き」、「ほしいものが、ほしいわ」の三つは、いずれも糸井重里がセゾングループのために作ったコピーだった。
 その糸井は、広告業界にとどまらず、NHKで若者向け番組の司会をしたり、作詞をしたりと活躍の場を広げた。糸井が作詞し沢田研二が歌った「TOKIO」のレコードは、1980年の正月に売り出されたが、「スーパーシティ東京」を欧米人の発音に似せて「トキオ」と呼び、擬人化して「トキオは空を飛ぶ~」と歌ったものだった。
 糸井は後に、次のような発言をしている。「アメリカが本流で日本の自分たちはフォロワーというスタンスでやっているかぎり、新しいことはできない。だから自分たちの方こそ見てくれという宣言を、TOKIOという言葉に込めたんです」。
 YMOの細野晴臣は2014年に収録された映像で、当時、自分たちは何なのかと自問していたことを打ち明けている。障子と紙と木でできている国だから、すごく薄っぺらい。東京とはそういうものだろう。しかし薄っぺらく軽薄であることは、キュートなのではないか……と。
 同じYMOの高橋幸宏は、次のように回想している。「(外国へ公演に行って)工業用マスクをして、東京はこれがないと病気になるなんて、ウソばかりついてました。ただの皮肉だったんです。日本を外から見たとき、そう見えてるんでしょ、どうせ、みたいな……」。
 日本のミュージシャンのアイデンティティの問題、あるいはもっと一般的に日本人の文化的アイデンティティの問題といっても良いのだろう。日本人は欧米の文化に首まで浸りつつ、その中で新しいことを発信しようとするとき、どうすればよいか、という課題に彼らが正面から突き当たったのも、それが1980年代であったからなのだ。
 YMOは中国の人民服のような衣装を着て、テクノポップを演奏したが、中国と日本の区別すらつかない欧米のイメージを、彼らは遊んでずらしていた、そこに「障子の国のハイテクと80年代的自己主張の精神が見え隠れする」と番組は言う。

▼80年代、米国のレーガン政権は、インフレ抑制のために厳しい金融引き締めを行い、その結果、国際収支と財政赤字の赤字に頭を悩ませた。日本との間での貿易赤字が特に巨大であったから、米国は日本の「市場開放」を強く要求し、中曽根政権はこの要求に応じ、国民に輸入品を買うように呼びかけた。
 1985年の「プラザ合意」によって、それまで1ドル=240円前後だった為替レートは、一挙に1ドル=200円前後に急騰した。このため輸出は低迷し、景気も後退、日銀は低金利政策を継続した。この政策判断がカネ余り現象を生み出し、カネが不動産市場に流れ込み、地価は天井知らずで高騰した。
 ここで生み出されたカネは国内だけでなく国外にも向かい、ニューヨークのロックフェラーセンターやコロンビア・ピクチャーズを買収し、ロンドンのクリスティーズのオークションでは、ゴッホの「ひまわり」の絵に53億円の値をつけた。
 1989年末の日本の株価は38,915円の最高額を記録した。

(つづく)

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