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ひろゆき論2 [思うこと]

▼ひろゆきがアメリカのITベンチャーの創始者と話をしたとき、なるほどこれでは日本企業はアメリカに勝てないと、つくづく考えさせられたことがあったという。
 ある会社で、経営者が5人のエンジニアに、一つのシステム製品を作ってもらうとする。納期は3カ月以内、予算は600万円。アメリカの経営者は、予算を上乗せしてもいいから、どうしたら納期を早められるかを考える。5人のエンジニアを10人に増やすとか、1か月で仕上げるノウハウを持つ会社を買収してそこにやらせるとか、いかに早く完成させるかを最重視する。
 ところが日本の企業は、納期が遅れてもいいから半額にならないかと、値段を下げる交渉にばかり関心を向ける。アメリカでそんな仕事をしていたら、競争相手に先を越されるかもしれない―――。
 ひろゆきが語るこのエピソードは、「失われた30年」を招いた日本の企業行動の問題点の指摘として、適切である。しかし彼は、こうした考えを日本企業批判、日本社会批判として、主張のメインに据えるようなことはしない。日本社会の現状は与えられた前提条件とし、その中で若者はどう生きるべきか、どう働くべきかを語るのである。
 その内容は、ひろゆき本の大きな特徴といえるのだろうが、努力せよ、我慢せよ、マジメに頑張れば他人は評価してくれる、というようなことは決して言わない。反対に、楽をしろ、無理をするな、抜け道を探せ、いかに手を抜いて楽して成果を上げるかを考えろというのが、彼の主張の基調音である。ひろゆき自身が「怠け者」であり、それでも他人と少し違う考え方をすることで成功を手に入れたのだと、若者たちに語りかけるのである。

▼さて、ひろゆきが登場し議論するABEMA Prime というネット番組を、2本見た。
 1本は、前回紹介した『世界』の「ひろゆき論」の中で、批判の対象の一つとされたもので、2022年10月にひろゆきが沖縄県名護市辺野古の米軍基地建設反対の「座り込み」を見に行った時の「事件」を紹介しつつ、検討した番組である。ひろゆきが米軍基地のゲート前に来たとき、「座り込み」の小屋と3千何十日と書かれた看板はあったが、座り込む人は一人も見えず、彼は、「座り込み抗議が誰もいなかったので、0日にした方がよくない?」とツイートした。
 辺野古の米軍基地建設反対の「座り込み」は、2014年7月の国の工事開始に抗議して始まった。初めは24時間すわりこんでいたようだが、じきに工事車両が埋め立て土砂を搬入する9時、12時、15時に合わせて抗議する形になり、以来3千日を超えて抗議活動を継続しているのだという。それを聞いてひろゆきは、翌日15時にまた抗議活動を見に行き、基地建設反対の運動家たちは彼の姿を見て、前日のツイートに抗議したのである。
 運動家たちは、ひろゆきのツイートが抗議運動に対する誹謗であり侮辱であることを非難し、ひろゆきは座り込みの人がいなかったからいなかったと書いたのであり、事実を書いて何が悪いのかと言い返した。
 「ダンプカーを止めるために座り込みしてんのよ」
 「それは座り込みじゃなくて抗議行動です」
 「自分で勝手に定義しないでもらいたい」
 「ぼくの定義じゃなくて辞書の定義です」
 「24時間いなければ座り込みと言わないという定義が、辞書のどこにありますか?」
 「辞書に書いてあります」
 「書いてないよ。どこの会社の辞書?」
 「検索すれば辞書が出てくるんで、調べて下さい」
 「いや、あなたに聞いている。24時間座り込んでいないと座り込みという言葉は成立しないのか?」
 「座り込みは座り込んで動かないこと」
 「24時間じゃなきゃ駄目なんですか?」―――
 こういうしょうもないやり取りが続いたあと、反対運動の運動家たちは基地のゲート前に「座り込み」、そこへ土砂を積んだダンプカーが何台も到着し、運動家たちは「埋め立て反対」の声を上げた。彼らはひとしきり「反対」の意思表示をしたあと、機動隊の指示に従って「座り込み」を解き、トラックは基地の中に入って行った。

 ひろゆきのツイートには、28万以上の「いいね」が付いたという。

▼1996年に米軍の普天間飛行場の返還が日米政府間で合意され、普天間から移設する滑走路をキャンプ・シュワブ沖に建設することが決まった。移設反対の声もなかったわけではないが、当時の沖縄県知事もキャンプ・シュワブのある名護市長も賛成した、と筆者は記憶している。普天間飛行場は学校や民家に囲まれ、「世界で最も危険」な飛行場と言われていたから、その返還を最優先したことは合理的な判断だったであろう。移設する滑走路を建設する辺野古岬はキャンプ・シュワブに隣接している。
 辺野古の滑走路建設反対の声が高まったのは、民主党政権時の鳩山首相が問題をよく理解しないまま「最低でも県外移設」を言い、その後撤回するというお粗末なドタバタ劇を演じてからだと記憶するが、その辺の経緯は省略する。「平和な島・沖縄に軍事基地はいらない」という主張に、筆者は、そう考えるのは感情として無理はないだろうと認めつつ、日本の地政学から見て難しいと思った。当時、米軍基地が存在することに、軍事的な危険性があったわけではなく、基地反対運動は多分に「反米」や「反自衛隊」、「平和憲法擁護」という政治的、イデオロギー的な観念や感情に拠るものだったと考えたからである。
 しかし現在、沖縄の軍事基地のもたらす危険性は極めて高くなっていると考えるべきである。米国の国力が相対的に低下し、中国の軍事力は格段に増強されている。習近平が合理的に思考するなら、それでも台湾の軍事的併合に動くことはないだろうが、「国益」よりも「党益」を上に置く国体である。「党益」のため、あるいは習近平の個人的名誉のため、「台湾統合」を大きな犠牲を払っても果たさなければならないと思い立った場合、それを押しとどめるものがあるのだろうか。
 習近平が台湾統合を決意したとき、中国軍は台湾に地上軍を送り込み、占領しなければならない。海を渡って地上軍を送り込むためには、航空優勢の確保が最低限必要な条件であり、そのためにはミサイルを使って敵の航空戦力が飛行場にいるあいだに壊滅させたり、飛行場そのものを使用不能な状態に追い込むことが考えられる。つまり日本の自衛隊と米軍の航空戦力の基地や航空母艦は、「台湾有事」の際の必須の攻撃目標なのであり、とりわけ沖縄の基地はそうならざるをえない。
 「平和のために軍事基地はいらない」というかっては荒唐無稽に近かった主張が、今ではかなりのリアリティを持って考えられるようになってきたことを、認めざるを得ないのだ。

 沖縄の基地やその反対運動について議論をしたいのなら、そのような難しい現実について論じるべきであり、ガキの口喧嘩のようなまねの何が面白いのか、まったく理解不能というほかない。

(つづく)

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