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リベラルの終り? [政治]

▼衆議院の解散・総選挙がこの7月か、遅くとも9月にあるだろうと、TV番組で政治解説者がしゃべっている。総理官邸の赤いカーペットの上で、身内を集めて忘年会だとはしゃいでいた岸田首相の長男兼秘書官は、批判を浴びて事実上更迭されたが、これも解散・総選挙をにらんだ首相の準備の一環なのだそうだ。
 5月末に行われたFNNと産経の合同世論調査では、岸田内閣の支持率や広島サミットの評価などを質問したあと、どの野党に期待するかを聞いている。正確に言えば、「現在の国会の野党の中で、どの政党に最も期待しますか」という質問だが、その回答は次のようだった。
 立憲民主党:15.7%
 日本維新の会:29.2%
 国民民主党:5.1%
 共産党:3.2%
 れいわ新選組:3.3%
 社会民主党:0.4%
 政治家女子48党:0.6%
 参政党:1.6%
 期待する野党はない:35.2%
 その他(「わからない」「言えない」):5.7%

 この回答で目を引くのは、やはり日本維新の会への期待が高く、現在の野党第一党の立憲民主党のほぼ倍の期待度を示している点だろう。日本維新の会の馬場代表も、「来るべき衆議院選挙で野党第一党の議席を得ることが次の目標」だと発言している。
 日本維新の会の何がそれほど期待を集めるのか、逆に、立憲民主党はなぜ国民の期待を集められないのか、そのことは選挙という政党選択の問題を越えて、日本の戦後思想の問題として考える価値があるように思う。

▼戦後政治史の上で、自民党以外に「保守」を名乗る政党が誕生したことは、「新自由クラブ」や「日本新党」をはじめいくつもある。「日本維新の会」がその中で特異なのは、大阪という地域にしっかり根を下ろしていることである。というよりも、そのそもそもの発生が、大阪府知事になった橋下徹が自分の考える府政改革を進める上で、自分を支持してくれる政治勢力を必要とし、2010年に「大阪維新の会」を結成したところから始まるのだ。
 「維新」は今でも大阪が地盤であり、大阪におけるその勢力は他の政党を圧している。そのことは大阪府民、大阪市民が、橋下徹の始めた大阪府政、大阪市政の改革を肯定的に評価し、支持したということを示している。もちろん支持や評価ばかりでなく、強い反発や非難が橋下徹の「改革」に浴びせられたのだが、それらを乗り越えて橋下の「維新」は、大阪で根を下ろしたわけである。「改革」の何が、大阪人の支持を得たのか。

 筆者は、大阪という土地も人も行政についても、直接的には何ひとつ知らない。ぼんやりそんなことを考えていたら、橋下「改革」について過去に一度だけメモを取ったことが思い出された。ノートを探したところ、幸いにも見つかったので、その一部をここに掲載したい。
 このメモをとった時、筆者は橋下の「改革」について何ひとつ知識を持たず、雑誌『世界』のルポルタージュをたまたま読み、その感想をメモしたのだった。何がきっかけでそのルポを読み、メモまで残したのか、なんの記憶もないのだが、ことによると当時、橋下知事の「教育介入」がマスメディアで大きな話題になっていたのかもしれない。
 メモを転記すると、次のようなものである。

▼《『世界』2008年12月号に載っていた「ルポルタージュ 橋下知事の教育介入が招く負のスパイラル」を、たまたま読んだ。橋下の「教育介入」を一方的に批判する出来の悪いルポだが、皮肉な意味で多少得るものがあったのでメモしておいた。

 ルポの終わり近くに、次のような一節がある。
 「……橋下知事は……自らの狭い実体験に基づいた「思い」にこだわり、……「府民の声を聞く」と言っては対立の構図をつくり上げているようだ。この「橋下劇場」の手法によって、多くの府民は喝采の声を上げ、……」
 ルポは橋下知事の「思い」について何も触れていないから、読者は何も知ることができない。しかし橋下の「教育介入」が不当だと批判しようとするなら、この「思い」は重要なポイントであり、きちんと取り上げなければ話は始まらない。また「多くの府民」が橋下の行動に「喝采の声を上げ」ている、という点も重要だ。橋下が教職員組合や教育委員会などを批判したところから、この騒動は始まった。 橋下はなぜ「教育介入」をしたのか、なぜそれに府民は喝采の声を上げるのか、教職員組合や教育委員会のこれまでの活動は批判に値するのか、それとも批判する橋下や府民の側に誤りがあるのか。大阪の教育が上手くいっていないとすれば、原因はどこにあり、どのように改善すべきなのか―――。これらの疑問がルポルタージュの出発点にならないとすれば、そもそも書く意味などどこにもないだろう。

 幸いわれわれはインターネットで大阪府教委のホームページを開き、「大阪の教育を考える府民討論会」(第1回10/26、第2回11/24)の記録を読み、橋下知事の「自らの狭い実体験に基づいた『思い』」を知ることができる。橋下はこんな発言をしている。「自分の通った大阪の中学はいわゆる『同推校』(同和教育推進校?)で、そこではまず競争の否定から入る。競争をしてはいけない」。高校は地元の高校を受験するようにという運動が行われていて、地元でない高校を受験しようとした橋下は、「なぜお前は地元の高校に行かないのか」と、その理由を言わされた。――
 「実体験」というものは体験者固有のものであり、「狭い」に決まっている。その体験から得られた「思い」が偏ったものなのか、それとも広がりをもつものなのか、が問題の要点である。中学生・橋下が感じとった「思い」の中には、大阪の教育では生徒の学力向上がおろそかにされている、という考えも含まれていたに違いない。そしてそれは多くの府民の喝采が示すように、広がりをもつものだったと言ってよいだろう。
 ルポには次のような発言も載せられている。「……これまで全国から最も高く評価されてきた『大阪の教育』、障がい者や貧困家庭を地域や学校で支えながら行ってきた教育……」
 橋下や多くの府民が、このままではだめだと考える「大阪の教育」が、一方では「これまで全国から最も高く評価されてきた」という、この落差の大きさ。繰り返すが、この落差に不思議を感じ、ここから出発するのでなければ批評という行為は成り立つはずがない。このルポルタージュは出発点の姿勢において、問題を語る資格を欠いている。》

(つづく)

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