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PLAN75 [映画]

▼映画「PLAN75」(監督:早川千絵 2022)を見た。静かな、つつましやかな映画だった。

 ある日国会で、「PLAN75」の法案が可決されたと、ラジオのニュースが伝えている。それは75歳以上の高齢者が、自分の最期について自由に選択できる制度であり、自分の最期を明るく苦痛なく締めくくれるように、行政が配慮し、支援してくれる制度である。それは少子高齢化がいっそう進んだ近未来の日本で、大量の老人が生み出す社会の軋轢を解消するのに必要な政策として、理解されている。
 「PLAN75」と書かれたのぼり旗やポスターを掲げて、行政はこの制度の普及に励む。現在、政府は「マイナンバー・カード」を普及させるために、現金の「おまけ」付きのキャンペーンを繰り広げているが、「PLAN75」の普及活動は、この「マイナンバー・カード」のそれを連想させる。

 主人公・角谷ミチ(倍賞千恵子)は、夫と死別し、子どももいない。80歳近い年齢だが、ホテルの客室清掃員として働いている。しかし同僚が「孤独死」したあと、あまり高齢の清掃員を働かせているのは外聞が悪いと、ホテルから解雇される。同じころ、終の住処だと思っていた古い団地の取り壊しも決まる。ミチは新しい仕事と住まいを探すが、高齢の女性を受け入れるような仕事やアパートはない。
 ミチはある日決心して、「PLAN75」を申し込む。申し込んだ高齢者には10万円が支給され、担当職員と電話でお喋りができるようになる。担当の若い女性職員は親身になってミチのお喋りの相手を務めるが、時間は1日15分間と決められており、彼女は上司から、個人的に親しくなってはいけないと指導されていた。それでもミチの頼みを無下に断ることができず、一緒にボーリング場に行く。
 決められた最後の時間が来ると、ミチは前の晩に取った特上の握り寿司の桶をきれいに拭き、部屋が片づいていることを確認してから家を出、バスに乗って施設へ行く。

 岡部幸夫(たかお鷹)は、全国の建設現場をまわってトンネルやダムの建設工事をしてきたが、高齢となりアパートで独り暮らしをしている。兄がいたが、関係は疎遠であり、その兄もだいぶ以前に亡くなった。岡部も「PLAN75」を申し込み、制度で定められたひとときを過ごした後、施設へ行く。
 ミチは施設で説明を受け、吐き気止めの錠剤を呑み、酸素吸入マスクのようなマスクを着けて、ベッドで横になる。ガスが送られてくると眠くなり、眠りにつくように死に至るのだという説明だったが、ふと横のベッドを見ると、眠る男(岡部)の姿が見えた。―――

▼映画は、テーマとして人間の「死」を扱っているのだが、登場人物が泣いたり怒ったり、昂ぶった感情をあらわにしたりするシーンは皆無である。行政の末端で「PLAN75」の受付を担当したり、申し込みをした高齢者と電話で接したりする若い職員の中には、迷いや疑問を持つ者もいるが、それが「悩み」として大きな声で語られることもない。
 また、通常のTVドラマなら過剰なほど提供される「説明」も、可能な限り削り落とされており、観客は肝心の「PLAN75」の制度の内容についてさえ、登場人物たちの会話の切れ端から推測するだけである。
 それらの演出が、映画の静かでつつましやかな印象を形成しているのだが、見終わったあとに残るのは爽やかなものではない。
 上野千鶴子が、映画の宣伝ビラに感想を寄せていた。「いや~な映画だ。だが目を離せない作品だ。あなたの明日がこうなるかもしれない。それでいいのか。」
 筆者の感想は、上野に近いわけではない。しかし筆者も、見終わったあとにどこか「いや~な感じ」が残った。それは結局、行政がその守備範囲を超えて、人間の「死」について口を出すことへの強い拒否反応なのだと思う。
 行政が国民の納得の下に、苦痛なく生を終えることを「支援する」制度を整備することは、ある意味で「合理的」なことなのかもしれない。しかし筆者の中で、「死」と「合理性」が滑らかにつながることへの拒否反応が、消えることはないだろう。

 監督・早川千絵は、映画のパンフレットで次のように語っている。
 「私は10年ほどニューヨークに住んで2008年に帰国したのですが、久しぶりに帰ってきた日本では自己責任論という考え方がとても大きくなっていました。社会的に弱い立場にいる人たちへの圧力が厳しく、みんなが生きづらい社会になっていた。それが年々ひどくなると感じていた2016年の夏、相模原の障碍者施設で起きた事件にものすごい衝撃を受けました。こういう社会になってしまったから起こった事件なのではないかと考えるうちに、〈PLAN75〉という設定を思いつきました。このままで行くと、ほんとうに日本でこういうことが起きてしまうかもしれないと思ったのがきっかけです。」
 筆者の問題意識は、「死」というものの捉え方、扱い方にあったのだが、早川監督の関心は、日本社会のあり方にあった―――。

▼日本は高齢社会となり、高齢者向けの情報やサービスが山のように提供される。
 週刊誌の売り物は「健康法」であり、食事をどうする、運動はどうする、病院はどこが良いか、正しい医者のかかり方など、毎週のように特集が組まれる。さらに遺言の書き方や相続税の節税の仕方、年金の賢いもらい方、失敗しない介護付き老人ホームの選び方など、高齢者向けの記事が花盛りである。
 新聞を開けば墓地の広告。TVを付ければ、死亡保険の広告。「子どもたちに迷惑かけたくない」、「葬儀費用ぐらい残しておきたい」と、元気そうな高齢者がのたまう。
 先日は、葬儀会社のオンラインセミナーの案内広告が拙宅に届いた。自分の葬式について、自分が説明を受け、自分で手配するのだろうか。なんとも滑稽な感じだが、葬儀会社によれば、葬式の事前相談を通じて不安が解消され、「人生を前向きに見直すための準備」となるのだそうだ。
 高齢者向けのマーケットに出された売り物が、どれだけ求められているものなのか、かなり怪しいのだが、現代日本でいちばん金を握っている世代のふところを狙って、今後も高齢者ビジネスはますます盛んになるだろう。

 映画の角谷ミチや岡部幸夫は、高齢者ビジネスとは無縁のところで生きている。だが、誰にでも一度だけ訪れる「死」の前では、高齢者ビジネスの良き顧客であった者も無縁であった者も平等であり、そこに救いがある。
 映画の最後で、施設を飛び出したミチは、沈んでいく夕陽を見つめながら、「リンゴの木の下で」を口ずさむ。早川監督は、「この映画のラストをどうすればいいのか、脚本を書いている時に迷っていましたが、解決策は分からないけれども、とにかく生きていることを肯定したいと思っていました。人に生きてほしい。願いのようなものを込めました」と語っている。

(おわり)

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