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なぜ君は総理大臣になれないのか 2 [映画]

▼小川淳也が安倍政権について語る場面がある。(2016年というテロップが出る。)
 安倍政権は、国民を失望させた民主党政権の記憶が大きな下支えとなり、安倍晋三が右派であることでそれよりも右の政治勢力の出現を抑え、「働き方改革」とか「同一労働同一賃金」という政策を掲げることで、ウイングを左に延ばしている。これが盤石の政権をつくっている。自分たちはこれに対抗しなければならないのだ、という趣旨のことを言う。
 この状況認識は正確である。民主党が維新の党と合体して民進党となったり、さらに希望の党に合流しようとしたのは、安倍政権が「盤石」であり、対する自分たち野党は弱く、太刀打ちできないという自覚があったからである。そして彼らを深いところで脅かしていたのは、自民党が野党の主張や政策にまで触手を伸ばし、政権の政策として取り込むことによる、自分たちの立脚点が怪しくなることへの不安であったはずである。

 日本の政治の対立軸は、自民党と社会党が対峙し、保守・革新の対立と言われた時代は、わりあい明瞭だったように思う。保守の側は、日本が軍隊を持ち、米国と同盟を結び、西側諸国の一員として共産主義国と対峙すること、そのために憲法9条を改正することを主張した。革新の側は、日本の非武装ないし必要最低限の軽武装を主張し、米国との軍事同盟に反対し、共産主義国とも友好関係を築くことを求めた。憲法9条の改正には断固反対であり、それは明瞭な対立軸を形成していた。
 また保守の側は、日本経済の成長・拡大を最優先課題としたのに対し、革新の側は大企業と中小企業の格差を問題にしたり、所得格差の解消や福祉の充実、経済成長が生み出した公害問題の解決を優先するよう主張した。だが経済政策の面では、優先順位や重点の置き方に違いはあるものの、社会を分断する決定的な対立軸があるわけではなかった。
 現在、「保守・革新の対立」という言葉は聞かれない。「革新」という言葉は、戦前は「革新官僚」や「革新将校」など、現状の変革を強力に志向する人びとに対して使われた。そこからどのように、戦後の「社会主義」シンパの政治勢力を指す言葉に転じたのか不明だが、この言葉はすでに、「死語」になったようだ。

▼「市民派」という言葉が、「革新」という言葉に代わって盛んに使われた時代もあった。外交や安全保障などの国政の課題ではなく、日照権や自動車公害など環境問題を取り上げたり、貧しい公共施設や公共サービスを問題にするなど、地域の課題解決のための「自覚的市民」の運動が、70年代以降盛んになった。「革新」政党は、多くの場合「市民派」と共同歩調を取ったが、それは国政レベルで有効な対抗軸を失いつつあった彼らが、延命と再建の模索のためにそうせざるを得なかったという面が強い。
 「革新」政党の存在理由を決定的に揺さぶったのは、英国のサッチャー政権の取った「新自由主義」の政策だった。1979年に政権についたサッチャーは、戦後行われてきた「福祉国家」政策が英国の停滞を招いたとして、社会政策重視をやめ、市場経済を重視する政策に切り替えた。そのため国有企業を民営化し、経済分野の規制を緩和する政策が大胆に行われた。1981年には米国でレーガン政権が発足し、米国でも経済の再建のため、減税や規制緩和など市場重視の「新自由主義」政策が取られた。
 それまで日本では、既成の社会秩序の側に立つ保守政党に対し、「革新」政党は規制の自由化を主張し、既得権益の上に居座る「保守」政党を揺さぶろうとしてきた。しかし英国でも米国でも、市場の力を復活させるために「保守」の側が規制緩和を言い、既成秩序を打ち破る行動に出たのである。
 日本でも中曽根政権は、電電公社や国鉄の「民営化」を強力に推進し、労働組合の強い反対を乗り越えて「民営化」を実現した。もしも電電公社が民営化されず、旧態依然の組織のまま国内の通信事業を独占していたなら、日本の「デジタル社会」への適応は、はるかに困難であったろう。
 「民主党」や「立憲民主党」は、かっての「革新」政党である「日本社会党」のDNAを色濃く受けついでいる。古い保革対立の対立軸が無効になり、「保守」が「改革」を叫び、かっての「革新」を引きついだ「リベラル」が「改革」に反対するという「新自由主義」の生んだネジレの時代に、立憲民主党の政治家はどのような構想によって巨大与党に挑むべきなのか。そのための必要な作業の一つは、アベノミクスをきちんと総括することである。

▼安倍晋三と菅義偉が政権を握った9年間を、どう評価するべきなのか、深い議論はなぜか行われていないように見える。
 安倍政権の時代、政治的には集団的自衛権などをめぐる対立があったものの、アベノミクスと称された経済政策については、国民はおおむね肯定的に受け止めていたように見える。そのことは選挙結果に表われ、安倍総裁の下で戦われた3回の衆院選挙、3回の参院選挙に自民党はいずれも勝利し、それが安倍晋三への党内の支持がいまだに高い理由であり、安倍がキングメーカーのような顔をしていられる理由でもある。
 しかしアベノミクスの9年間を事実に即して見るなら、それが成功だったと評価するのは難しいのではないか。
 最初の1年半こそ、第一の矢である「異次元の金融緩和」が円安を生み出し、輸出が伸び、株価が上がり、消費が増え、きわめて快調に進行しているように見えた。しかしその後、景気は足踏み状態に入る。金融緩和にしろ第二の矢の公共投資にしろ、その経済効果は短期的なものであり、第三の矢の「民間投資を喚起する成長戦略」こそアベノミクスの本命だったのだが、この4番バッターが一向に打てず、まともに打席に立つこともなかったからである。
 バブル崩壊後、金融危機やデフレを体験した日本の企業は、賃金を抑制し職員数を減らし、企業利益を内部留保したり株式配当に回したりしてきた。企業経営者にデフレマインドが定着し、新たな需要を創出するプロダクト・イノベーションから遠ざかっている間に、日本経済は世界の成長から取り残される劣等生に変わった。労働生産性(就業者一人当たりのGDP)は、今では韓国、スロベニア、トルコよりも低い。
 たしかにアベノミクスの期間中、企業の利益は増え、株価は上昇したが、企業利益は人件費を抑制した結果であり、人件費抑制は、低賃金で働く非正規労働者の増加によってもたらされた。一言で言えば、アベノミクスの9年間は、日本と日本人が貧しくなった9年間だったのだ。
 だが皮肉なのは、この人件費抑制の影響をまともに受けている若者の自民党支持率が、これまでにないほど高く、立憲民主党は高齢者の支持に頼る政党となっているという政治の現状である。

(つづく)

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