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ヤクザと家族 2 [映画]

▼観終わって、深々とした満足感があった。
 ある地方都市のヤクザ一家と主人公の二十年が、1999年、2005年、2019年という三つの時代に分けて描かれる。主人公は18歳の不良少年からいっぱしのヤクザになり、そして14年の服役を経て口数の少ない中年の男に変わる。
 14年ぶりのシャバは、彼にとって予想以上に変わっていた。暴対法が施行され、ヤクザ組織は経済的に締め付けられ、社会的に追い詰められていた。そういう社会環境の変化やヤクザ組織の変化の物語と並行して、賢治と由香の不器用でぎこちない「恋愛」の物語が進行する。二つの物語が自然に無理なく繋がって描かれていることが、この作品に厚みを持たせ、成功したひとつの要因である。
 実をいうと、筆者の満足感のかなりの部分は、主人公たち二人の不器用でせつない「恋愛」の物語に負っている。賢治は、ヤクザ稼業に関しては腕の良い若者だが、女については自分の感情をどう表現したらよいのか分からず、ぶっきらぼうな命令口調でしかものを言えない。一方由香は、はじめは戸惑い強く拒んでいたが、次第に賢治の“うぶ”な心が見えてくると、憎からず思うようになる。しかし相手がヤクザであることは、由香にある線を越えて踏み込むことを、躊躇させてもいた。
 14年後に再会し、由香はひとしきり賢治と話したあと、もう会わないほうがいいと思う、と言う。しかし賢治をアパートに泊まらせることになり、母娘と賢治の平穏で幸せな日々が始まる。
 朝、賢治は由香のつくった朝食を一緒に食べ、母と娘を職場と中学校に車で送る。由香を職場の前で降ろし、学校に向かう途中、娘が、ねえ、山本さん、と聞く。ママはあんなおばさんなのに、どこがいいの?
 賢治が、むかしは綺麗だったんだよ、と言うと、山本さん、昔からの知り合いなの?と更に娘は聞いた。賢治がなんとか答えをごまかすと、娘は、ママは楽しそう、よく笑うようになったし、と言った。賢治を実の父親だと知らない娘の無邪気なお喋りをとおして、由香と娘と賢治の幸福な時間が垣間見える場面である。

▼綾野剛は各時代の賢治役を演じ分け、尾野真千子は、女としての弱さも強さも持ちながら気丈に生きる由香役を演じ、舘ひろしは包容力のある子分思いの柴咲組長を演じている。柴咲組長が少し好人物風に描かれ過ぎているようにも思うが、そこは物語性を優先したのであろう。この映画の監督であり、脚本も書きおろした藤井道人は、物語を創り出す豊かな才能の持ち主であるようだ。
 藤井道人の脚本の良さは、登場人物の会話に端的に現れている。多くの映画やTVドラマのセリフが嘘くさい印象を与えるのは、説明的に過ぎ、セリフによって状況を説明しようとし過ぎるからである。実際の日常会話はずっと状況依存的であり、言葉だけ取り出せば、何を話しているのか当事者以外にはチンプンカンプンであることの方が多い。藤井は登場人物のセリフから説明的な要素を削り落とし、会話はその分自然な活き活きしたものとなり、物語は鮮度を増す。それがこの映画が成功した、二つ目の要因といえるだろう。
 カメラワークも良い。場面転換に効果的に使われている海や街のロングショットが、印象的である。

▼暴力団対策法について触れておかなければならない。すべての登場人物の上に影を落とし、彼らの運命を支配する暴対法や暴対条例は、物語の隠れた主役といってもよい存在なのだが、その実際の運用を筆者は知らない。この映画や、同じように殺人罪で服役した元ヤクザの男が主人公の映画「すばらしき世界」(西川美和監督 2021年)の語るところによれば、次のようなものであるらしい。
・ヤクザは銀行口座を開いたりケータイを持つのも、なかなか面倒である。
・ヤクザは子供を幼稚園に入れられない。
・ヤクザをやめても5年間は、まともな仕事に就けない。
・ヤクザとつきあうと、社会的非難を浴びる。
・ヤクザは生活保護を受給できない。―――
 要するにヤクザは社会から排除され、生きる権利さえ脅かされているのだが、それは当然だと、マル暴担当の刑事は賢治に向かって言う。「お前らのやってきたことを考えれば、当然の報いだろう。ヤクザの人権なんて、とうの昔になくなってるんだよ」。
 こういうヤクザへの対応の仕方が、法や条例の正しい解釈なのか、拡大解釈なのか、あるいは誤った解釈なのか、は知らない。しかしヤクザが表立って抗議の声を上げるのは難しいだろうし、実状を知っている者も、ヤクザの味方だと指さされるのを恐れて疑問の声を挙げないとすれば、上のような制限や嫌がらせが現実に行われている可能性は、案外高いのではないか。

 筆者自身も一度だけ、暴対法の運用の実態に触れた体験がある。
 数年前、母が亡くなり、葬儀屋と打ち合わせをしていた時である。火葬場に出す書類や役所に出す書類など、葬儀屋から言われるまま幾枚もの書類に住所氏名を書き、印鑑を押した。そのうちの一枚に、「私は反社会的組織に属する者ではありません」という趣旨の、誓約書のような書類があった。
 こんなもの、必要なの?と聞くと、ええ、という短い答え。少し引っかかったが、黙ってサインし、捺印した。もしも筆者が「反社会的組織に属する者」であった場合、葬儀屋は葬儀から手を引くのだろうか、と思った。
 「村八分」という言葉があるが、これは村のおきてを破った村人を、村中で仲間はずれにすることを指す。ただし火事と葬式の場合を除いて、と筆者は理解してきた。現代日本のヤクザへの仲間はずれは、江戸期の村八分よりもさらに厳しく、葬式の場合でも容赦しないらしい。

▼もう一つだけ例を挙げる。これは10日ほど前(12月27日)のニュースである。
警視庁と目黒区は暴力団排除に関する協定を結んでいて、警視庁は区営住宅入居者に暴力団関係者が含まれていないかどうか、確認しているのだという。目黒区はこの協定に基づき、38人分の氏名、性別、生年月日の記された「区営住宅入居者リスト」のフロッピーディスク2枚を、2019年と2021年に提出した。ところが警視庁は、預かったフロッピーディスク紛失し、「お詫び」を表明したというのである。
 なぜ、フロッピーディスクなのだろう、という疑問がただちに浮かんだ。フロッピーディスクが使われなくなって、もう10年以上経つはずで、今のパソコンでこれを読むためには、特別のアダプターが必要になる。
 そういう時代がかったしろものに保管されていたなら、情報自体も10年以上前の古いものに違いない。もし10年以上前の居住者リストの中にヤクザの組員の名前らしきものが見つかったとして、目黒区役所はどうするのだろうか?区営住宅の退去、明け渡しを求めるのだろうか?

 筆者はヤクザがはびこる社会を望まないし、ヤクザ映画と現実を混同するものでもない。だから彼らの活動を封じ込めるために、警察力を適切に行使することは必要なことだと思う。
 しかしヤクザを社会から徹底的に駆除し、殲滅するという考え方には、どこか不健康なものを感じる。個人の家庭なら、ソファーに化学薬品を吹きかけ、99.9パーセント除菌できた、と満足感に浸るのもいいだろう。しかし社会は、滅菌消毒できるソファーではない。
 監督・藤井道人も、暴対法に強い関心を持っていたらしい。しかし彼はそれをナマの形で表現することを避け、物語として表現し、それに成功した。

(おわり)

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