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公民館から見えること 2 [組織文化]

▼前回、「社会教育」や「公民館」という制度が、時代が変化しても生きながらえる背景として、関係者の熱心な「応援」を挙げた。しかしもうひとつ、これらが教育委員会制度によって現実から保護されてきたという事情も、挙げなければならないだろう。



 教育委員会とは教育委員長を長とする合議制の機関である。(委員長は委員の互選で選ばれる。)政治的中立性を確保し市民の考えを反映する必要性がその存在理由とされ、市町村には他に選挙管理委員会や人事委員会などが同種の機関として置かれている。
 合議制の機関であるからその意思は、教育委員長と教育委員の合議によって決定され、その責任も委員会が負う建前である。しかし実態は、教育委員会事務局の決定を追認する場となっている。
 教育委員の一人には事務局の代表者(教育長)が選ばれ、教育長と事務局の職員は常勤の公務員として日々膨大な情報に接し、処理している。これに対し、教育長を除いた教育委員は任期4年の非常勤勤務であり、いかに「人格が高潔」で「教育・学術・文化に識見を有するもの」であったとしても、事務局の圧倒的な情報量を前に独立した判断を下すことは困難だろう。
 さらに教育委員会の仕事は、補助金交付や法律の解釈等を通じて、文部科学省の指導と影響の下にある。要するに教育行政は首長から独立し、教育委員を「お飾り」にかつぎながら、実質的には文部科学省の指導に基づいて行われてきたのであり、外の風がよく通る世界ではない。
 松下圭一の言葉を借りれば、「教育委員会方式も日本では市民によるコントロールというより、教育独善意識、さらには文部省セクショナリズムと結びつく」(『社会教育の終焉』)ものだった。



▼話はすこし逸れるが、2週間ほど前から滋賀県大津市の中学生の自殺事件が、大きく報道されている。
 昨年10月に男子の中学2年生がマンションから飛び降り自殺し、その後学校では全校生徒を対象に、亡くなった生徒について知っていることを書かせるアンケートを実施した。その結果、生徒に対する「いじめ」や暴行、恐喝があったことを示唆する記述がいくつも見られた。
 しかし学校と教育委員会は、亡くなった生徒が複数の生徒からいじめを受けていたとは認めたが、「自殺といじめの因果関係は断定できない」との結論を出した。



 「いじめ」は、風通しの悪い閉鎖的な空間では容易に起こりうる。とくに多様な人間関係を知らず、狭い空間内で同種の人間と多くの時間を過ごす子どもたちの場合、緊張の密度は高まり、深刻な問題が発生しやすいことは容易に想像できる。
 教科を教えるという本業以外に、子どもたちの無軌道にあふれ出るエネルギーを適切にコントロールしなければならない教員の仕事は、つくづく大変だと思う。
 しかし学校を中心とした教員の世界も、風通しが悪く閉鎖的である点では、けっして子供の世界に引けを取らないのではないか。上の事件への学校と市教委の対応から感じられるのは、そのことだ。



▼大津市の中学生自殺事件についての記者会見が、なんどもTVニュースで映し出されたが、長机のうしろの席に座り質問に答えるのは、いつも教育長とその部下か学校長だった。大津市の教育に責任を持つべき「大津市教育委員」は、教育長を除けば誰ひとり姿を見せない。
 新聞記者からその点を質問され、市教委では「教育委員は取材を受ける時間がない」と答えるしかなかったようだ。(7月18日 朝日新聞)



 全校生徒アンケートのあと、普通の組織であれば当然それを糸口にして事実を把握しようとするだろう。しかし学校も市教委もいじめの加害者とされる生徒に対し、なんの聞き取り調査もしなかった。その理由をこう答えたらしい。



 「事実確認は可能な範囲でしたつもりだが、いじめた側にも人権があり、教育的配慮が必要と考えた。『自殺の練習』を問いただせば、当事者の生徒や保護者に『いじめを疑っているのか』と不信感を抱かせるかもしれない、との判断もあった。」(7月6日 読売新聞)



 結局彼らは、「事実がつかめなかった」として、アンケート結果を非公表にした。



 滋賀県大津市にとびぬけて無責任な教育委員や教員、危機管理意識の希薄な職員が集まっていた、ということではないだろう。ただ彼らは、学校・市教委・県教委・文部科学省という閉鎖的なタテの関係のなかで物事を処理することに慣れすぎ、「教育的配慮」と称してコトを荒立てないことを常に優先させてきたのだろう。
 そういう人たちが、外の社会の突風に突如さらされ、右往左往しているというのが現在の構図なのだ。



▼話を「公民館」に戻す。
 公民館事業も教育委員会と文部科学省という閉鎖的な関係の中で、「社会教育」として営まれてきた。しかし学校教育と違い、それらの事業は文科省系列で独占するわけにはいかず、首長部局の実施する各種の事業や「文化行政」と競合することが多い。
 社会教育関係者は公民館の事業を「文化行政」と差別化し、「社会教育」の存在理由を守ることに腐心しているが、無益なことに労力を費やすことはない。住民の関心に応え十分に準備した企画が良い事業であり、企画の主体が首長部局であろうと教育委員会であろうと、住民にとっては関係ない。時代の変化を十分織り込んで、住民に必要とされる事業を企画できるかどうか、それだけが事業評価の対象となる。



 


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