SSブログ

西部邁2 [本の紹介・批評]

▼西部邁の著作は、「知識人」を「大衆」であることに無自覚な「大衆」として批判するものだったから、強い反発や反批判があったはずだが、筆者はそれらがどのように批評されたか、ほとんど知らない。筆者が読んだ唯一の批評は、西部のアメリカ留学記『蜃気楼の中へ』に対する阿川尚之のものである。それは西部という人間に評者の眼光が届いている、優れた批評だった。
 阿川は、「抽象的な思索の記述がことのほか多い本書のなかで、具体的に描かれるアメリカの情景は、どれもことごとく暗くてうっとうしい」ことを指摘する。そして、西部のアメリカでの体験が不愉快なものにあふれ、彼がアメリカやアメリカ人を嫌うのは、「それが自分とかけ離れたものであるからではなく、むしろ故郷北海道から引きずってきた内なる自己を痛切に思わせるからではないだろうか」と考える。
 《西部は故郷の束縛から、また記憶から、離れようとしてもがいてきたらしい。そのために若いときは左翼へ走り、後に転じて保守思想の担い手となった。しかし左翼にせよ保守にせよ、この人の思想への傾き方そのものに、一種マンチャイルド的な自己中心性や攻撃性がある。伝統だの保守だのとうるさく言って左を攻撃するやり方そのものは、一九六〇年前後に活動した左翼運動家のそれを多分に思い出させる。忘れようとしても忘れられないのが故郷であり、捨てようとしても捨てられないのが思想の内容そのものよりも思想の型なのだろう。/西部にとってアメリカという社会は、自分の故郷の、あるいは自分自身のなかの、いやな部分を赤裸々に思い起こさせるところであった。》(『アメリカが見つかりましたか――戦後篇』2001年)
 この阿川尚之の批評は正鵠を射ているように思う。西部は、「保守主義の本来の含意は進歩に対する徹底した懐疑にある」と言い、現代において「懐疑的姿勢」を保つ大切さを説くのだが、その言葉の内容は正しいとして、なぜ彼は自分の「語り口」には「懐疑」の目を向けようとしなかったのだろう。西部が「保守主義」を生きようとするなら、おそらく彼はもっと穏やかな言葉、穏やかな文体を、身に付けなければならなかったように思う。たとえば次のように。
 「私たちの非常に複雑な近代社会で必要なのは、いつも独断論を疑う心がけを失わず、非常にかけ離れた見解を公平にとりあつかう、自由な心のゆとりをもつ落着いた思索だ」(バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』)
 西部には、「自由な心のゆとりをもつ落着いた思索」が欠けているように見える。「この人の思想への傾き方そのものに、一種マンチャイルド的な自己中心性や攻撃性がある」という阿川の批評は、急所を射抜いているのだ。

▼『烈々豪々人生学』(1988年)という西部邁と加藤尚武の対談本を、前回のブログを書いたあとに読んだ。むかし手に入れたまま、少しも読んでいなかったのを思い出し、取り出したのである。二人は、「大学に入学したころからの友人」で、「ともに学生運動に参加し、同じ刑事法廷に通い、ともにアカデミズムの一隅に職を得て研究者としての人生を選んだ」(加藤尚武)仲である。西部は当時、教授会の騒動で東大教授を辞めたばかりであり、加藤尚武はヘーゲル哲学や倫理学を専門とする千葉大の教授だった。その本の中に、「死」について語りあった部分がある。
 加藤の語るところによれば、日本人はポックリ死にたいというポックリ願望が、非常に強い。しかしアメリカ人の場合は、ポックリ死ぬよりも癌で死にたいという人が多い。それは、「自分でじっくり考えて死にたい人が多い」ということではないか、と加藤は見る。日本人のポックリ願望は、「まず周囲の人に迷惑をかけないということ、それから自分でその苦痛を感じることが少ないということ、死を迎え撃つよりは死の意識を避けたいということなどから生じる」、つまり死というものを、「自分にとっても他人にとっても一番苦痛の少ない形が良い」と考えるからだろう、と加藤は考える。
 だが西部は、自分は「突然の死というものが一番恐い」と言う。「ごく生物的に言うと、あっという間に死んでいたというのは良いとも言えるんだけど、でもそこでぼくの精神なり魂なりが反発して、死を迎えたい、死を見ながら死にたいという感じがある」。
 そして西部は自分の死に方について、次のように考えを披露している。
 《……自分の死を見たいから、ぎりぎりまで自分が枯れていくのを見る。どこが生のぎりぎりかの判別についてはこれから訓練しますが、ともかくぎりぎりのところで青酸カリを自分で飲もうと思うわけです。今あれは販売が禁じられていますけれど、ただ幸いにもぼくの知り合いに金属商とか医者とかがいるから、その人たちに頼んで入手し、ひそかに保管して、最後、死を見つめて青酸カリ自殺をするというのが、ぼくの一番良い死に方なんです。》

 現代の日本人は、「生き方」はいろいろ選べるが、「死に方」は選べない、ひたすら「ピンピンコロリ」を天に祈るばかり、と考えているようだ。しかし西部は対談の30年後に、「青酸カリ」こそ使わなかったものの、かっての自分の言葉通り自殺を実行し、「死に方」も自分で選べることを示した。「死に方」を選べるということは、ひとの「生き方」が問われると同様、「死に方」も問われるということを意味する。西部が見せた「死に方」あるいは最後の「生き方」は、「年老いて体は弱っても容易に死ねない」これからの時代に、ひとつの参照例として想い起こされるのではないか。

▼筆者が、これから西部の著作を読むことはあまりないと思うが、彼の最期については、幾度も思い出すことになるのではないだろうか。
 筆者は、西部と同じように自ら命を絶った二人の経済学者・文筆家を想起する。
 一人は、戦前の「日本資本主義論争」に労農派の立場で参加し、戦後、トロツキーの研究者に転身した対馬忠行である。対馬は1979年に瀬戸内海航行中のフェリーボートから身を投げて死んだ。78歳だった。桑原武夫はその訃報を聞き、「対馬忠行の死に涙をこぼさないものは、学者のはしくれではない」と言ったという。(鶴見俊輔『期待と回想』1997年)

 もう一人は、マルクス経済学者で九州大学や法政大学で教授を務めた岡崎次郎である。岡崎は亡くなる前に、『マルクスに凭れて六十年――自嘲生涯記』(1983年)という本を書いた。
 岩波版の『資本論』は向坂逸郎訳となっているが、向坂は翻訳が下手で、実質的には大部分を岡崎が翻訳した。岡崎が向坂に、自分の名前を出してほしいと不満を言うと、それには君がもっと偉くなることだ、と言われてしまう。翻訳料が半々という扱いはおかしいと不平を言うと、上と下が一緒に仕事をするときはだいたい下の方がたくさん仕事をするものだと、押し切られてしまった。ここできっぱりと翻訳の協力を拒否できれば格好がついたのだが、自分は「このえげつない言い草をそのまま呑んでしまった」。だが戦後のインフレ昂進の中で、半々の翻訳料が自分の生活を大いに助けることになったのだから、「ますます遣り切れない」。―――そういう挿話が「自嘲」とともに、はばかることなく語られている。
 この本の最後の部分に、次のような記述がある。
 《自分で自分に始末をつけること、これはあらゆる生物の中で人類だけに与えられた特権ではないだろうか。この回想記を書き終わって、余りにも自主的に行動することの少なかったことを痛感する。せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ。なるべく他人に迷惑をかけず、自分もほとんど苦しまずに決着をつける方法の一つとして、鳴門の渦潮に飛び込むなどはどうだろうか、などと考えていたら、往年の友人対馬忠行に先を越されてしまった。同じような人間は同じようなことを考えるものだ。》
 岡崎は『マルクスに凭れて六十年』を出版した翌年、夫人とともに関西方面に旅に出、そのまま行方を絶った。80歳だった。

(この項おわり)


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

西部邁三度目の殺人 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。