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組織と日本人 [組織文化]

 新聞の古いスクラップを整理していたら、25~26年前にある団体から求められ、その発行紙に載せた自分の文章が出てきた。題名は「組織と日本人」。
 自分の問題意識も文章も、当時と現在が少しも変わらないように見えるのは、自分がその後成長していないということか、それとも衰えていないということか。多少複雑な思いがないわけではないが、以下に転載することにする。





 小津安二郎の伝記を読んでいて、興味深い一節にぶつかった。(高橋治『絢爛たる影絵』文春文庫 1985年発行
 小津は昭和18年にシンガポールへ映画づくりに派遣された。シンガポールは当時日本軍が占領中であった。占領日本軍は、イギリス支配から独立しようとするインド国民軍を主題とした映画をつくり、アジアの民衆を扇動しようと企画する。つまり「謀略映画」の制作を小津に依頼したのである。
 小津はシナリオを書き、英訳台本をインド国民軍の指揮者チャンドラ・ボースに見せる。一読後、感動したボースは、自分に映画の題名をつけさせてくれるように求め、『オン・トゥ・デリー(デリーへ)』と名づける。
 映画には幾人かのイギリス人の役者が必要だった。小津は捕虜収容所の中でイギリス兵たちが慰安のために演芸や芝居を行っていることを耳にし、それを見たいと申し入れた。捕虜の側は、自治組織の委員が小津に会い、話を聞いたうえで返事すると答えた。
 小津との面会は、捕虜の側に強い好感を与えたようであった。小津は彼らの演芸を見に行き、合計9人を選び出し、そのリストと台本を委員に手渡して言った。
 「これは反イギリス映画である。イギリスにはイギリスの考え方があるように、アジアの人間にはアジアの歴史の受け止め方がある。私のつくるのはそういう映画である。」
 3日後、3人ほどが出演を承知してくれればいいと、ふところ勘定していた小津の予期に反し、9人全員が出演承諾の返事をする。小津は、「ご返事はありがたいが、敵軍のつくる映画に協力する、その事実を承知の上かどうか、委員会でもう一度確認してもらいたい」旨、あらためて伝える。
 翌日英文の手紙が、小津のもとに届けられた。
 「………出演の意志は個人の問題であることが全体会議で決定されたうえで、9人は自分の意志を決定しました。われわれの間に強い反日感情があるのは事実ですが、この件に関する限り、小津氏の人柄がそれに優ったことをお知らせします。本日、小津氏から再考、再確認の要請があったことによって、われわれの意思決定が誤まっていなかったことがいっそう確かになったと理解しています………」



 この戦時中の友情物語はなかなか味のあるものだと思うが、私が興味を抱いたのは、この話自体ではない。イギリス軍の捕虜たちが収容所の中で自治組織をつくり、運営し、自分たちの内部関係を百パーセント規律していたことについてである。われわれの過去と現在の経験に照らして考えるなら、これは驚くべきことといえるのではなかろうか。

 同様の話を、私は別の書物で読んだことがある。山本七平の『一下級将校が見た帝国陸軍』(朝日新聞社 1984年発行)である。
 山本はその書物の中で、やはり太平洋戦争中に日本軍の捕虜となり、マニラの大学施設に収容された米国人女性の日記を引用しながら、書いている。

 《………彼等(米国人)は最初、抑留は2、3日だと思っていた。しかしそれがいつまで続くか分からないとなると、たちまち自分たちの組織を作り、秩序を立て始めた。「3日たち、やがて1週間過ぎた。………管理機関として、すぐれた専門家やビジネスマンたちの実行委員会が作られ、○○○○が委員長に選ばれた。引き続き警察、衛生、公衆衛生、風紀、建設、給食、防火、厚生、教育……の委員会や部が作られ、それぞれの委員長が選ばれた。」彼らは、その秩序を維持するため自らの裁判所までつくり、男女の陪審員を任命した。そしてまずゴミの一掃、シラミの退治から始め、病院、厨房、学校等の任務を分担していった………。》 

 
小津の相手はシンガポールのイギリス軍人捕虜であり、山本が紹介したのはフィリッピン在住のアメリカ人、イギリス人の捕虜である。彼らは捕虜という境遇にあって、いずれも収容所内に自治組織をつくり、自分たちの関係を自分たちで規律した。収容所という一種の極限状況のなかでは、日常、形ばかり維持されている建前など、なんらの力も持たないであろう。「自治組織」や「委員会」というものが彼らにとって単なる平常時の飾りであったなら、困難な状況下にあってはそれこそ非常時の一糸乱れぬ組織が現れたかもしれない。
 しかし彼らにとって「自治組織」や「委員会」は、自分たちの必要を満たすきわめて実際的な技術であった。つまり彼らは困難な状況であるにもかかわらず自治組織をつくったのではなく、困難な状況であったからこそ、状況を乗り切るために委員会を組織したのである。
 繰りかえすが、これはわれわれ日本人にとっては驚くべきことのように思える。立場が逆転し、日本人が捕虜の側に回ったとき、日本の軍人、兵士たちは「非常時下の組織」をつくるどころか、何ひとつ組織らしい組織を生み出しえず、実質的には力の強い古参兵らの専横とリンチが猛威をふるう「暴力団支配」(山本七平)が、各地に出現したのであった。



 山本七平が書いているように、彼ら英米人捕虜が特別に知能が高かったり、人格高潔だったりした、というわけではない。ただ彼らは、自分たちで組織をつくり自分たちで秩序を立て、その秩序をたえず修復しながら、その中に自分たちが住むことを当然と考え、一心不乱に組織を自分たちの手でつくってしまう国民だということなのだ。
 そして自分たちの組織を自分たちの手でつくるとき、討議によってより良い解決の方途を見出そうとする方法への信頼、すなわち言葉への信頼がその前提として少なくとも存在しているらしい、ということなのだ。
 おそらく日本人が慣れ親しみ、血肉としている方法は、それとは大いに異なる。
根回しを重んじ、公開の場での意味ある議論を回避しつつ、全体の和のためにお互いの歩み寄りを求める「方法」は、かっての農村に暮した人々だけのものでなく、現在の国際都市・東京に住むわれわれ自身のものでもある。
 そして「新人類」などと呼称される年若い世代が、「旧人類」とは異なり、自分たちの組織を自らつくりあげる能力を有していると考える証拠は、何ひとつない。彼らもまた立派に日本の伝統を受け継ぎ、捕虜収容所の中で容易に「暴力団支配」に身を委ねるに違いない。
 民族の長いあいだの習慣は、一朝一夕に変えられるものではないし、一見不合理に見える慣習の中に、民族の知恵が息づいている場合ももちろんあるだろう。しかし、言葉が言葉としての力を取り戻すことに、われわれはもう少し意を用いてもよいのではないかと考える。
 



 


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